彼は恐ろしさに飛び上がった。
「アンナ!」と彼は言った。
彼女は陰鬱《いんうつ》な様子で窓を見つめた。
「アンナ!」と彼は繰り返した。「とんでもないことを! 殺すのはあの人をではない!……あの人はいい人です……。」
彼女も繰り返した。
「あの人をではない。そうです。」
二人はたがいに見合った。
ずっと前から二人はそのことを知っていた。何が唯一の出口であるかを知っていた。虚偽のうちに生きるのが堪えがたかった。そしていっしょに逃げ出すことはできそうになかった。それがなんの解決にもならないことを知らないではなかった。なぜなら、もっともひどい悩みは、二人を隔ててる外部の障害にあるのではなくて、彼らのうちに、彼らの異なった魂のうちにあるのだった。二人は別々に生きることができないと同様に、いっしょに生きることもできなかった。二人は行きづまっていた。
そのとき以来、二人はもう接し合わなかった。死の影が二人の上にさしていた。二人はたがいに犯しがたいものだった。
しかし二人は期日を定めることを避けた。「明日、明日……」と言っていた。そしてその明日から眼をそらしていた。クリストフの強い魂はしきりに反発を覚えた。彼は敗北を承知しなかった。彼は自殺を軽蔑《けいべつ》していて、偉大な生命に憐《あわ》れな短縮的な結末を与えることを、どうもあきらめかねた。アンナのほうは、永遠の死滅へ至る一つの死という観念を、どうして自発的に受けいれ得たろうか? しかし死へ至るべき必然の事情が二人を追窮していた。二人の周囲の世界はしだいに狭まってきた。
ある朝、クリストフは裏切りの行ないをして以来初めて、ブラウンと二人きりになった。それまで彼はうまくブラウンを避けていた。ブラウンと出会うことは堪えがたかったのである。彼はむりにある口実を設けて握手しなかった。食卓で彼のそばにすわりながら、むりにある口実を設けて食べなかった。食物が喉《のど》に通らなかった。彼の手に握手し、彼のパンを食べ、ユダの接吻《せっぷん》を与えるとは!……そしてもっともたまらないことは、自分自身にたいする軽蔑《けいべつ》の念ではなくて、もしブラウンが知ったらどんなに苦しむだろうかという心痛だった……。その考えが彼を悶《もだ》えさした。憐れなブラウンはけっして復讐《ふくしゅう》もしないだろうし、おそらく二人を憎むだけの力もないだろう、と彼はよく知りつくしていた。ブラウンはいかに心がくじけることだろう!……どんな眼でクリストフをながめるだろうか! クリストフはその眼の非難に立ち向かい得ない気がした。――そして、おそかれ早かれブラウンは知るにきまっていた。すでにもう何かを疑ってはいなかったろうか。クリストフは二週間の不在のあとにふたたび会ってみて、彼の様子の変わったのに心を打たれた。もうそれは同じブラウンではなかった。その快活は消えてしまっていた、もしくはどこかわざとらしい点があった。食卓では、口もきかず物も食べずランプのように燃えつきかけてるアンナのほうを、じろじろぬすみ見ていた。そして気おくれのした痛々しい親切さで、なんとか彼女の世話をやこうとした。彼女はそれらの注意を手ひどくしりぞけた。すると彼は皿の上に顔を伏せて黙った。食事の最中に、アンナは息苦しくなって、ナプキンを食卓の上に放り出して出て行った。あとに残った二人は、黙々として食事を済ました。もしくは済ましたふうを装った。二人は眼もあげかねた。食事が済むと、クリストフは出て行こうとした。ブラウンはその腕をふいに両手でとらえた。
「クリストフ!……」と彼は言った。
クリストフは心乱れて彼をながめた。
「クリストフ、」とブラウンは繰り返した――(その声は震えていた)――「彼女がどうしたのか君は知ってやしないか。」
クリストフは刺し通されたような心地がした。しばし返辞が出なかった。ブラウンはおずおずと彼をながめていた。そして急に詫《わ》びを言った。
「君もよく見かけるとおり、彼女は君に何かと打ち明けてるものだから……。」
クリストフはブラウンの両手に唇《くちびる》をあてて許しを求めようとしかかった。しかしブラウンはクリストフの転倒した顔色を見、ぞっとして、すぐにもう知りたくなくなった。眼つきで懇願しながら、急いで早口に言いすてた。
「いや、そうじゃない、君は何にも知らないんだね。」
クリストフは心くじけて言った。
「知らない。」
おう、辱《はずかし》められた相手に断腸の思いをさせる事柄だからといって、自責し卑下することのできないその苦しさ! 尋ねかけてくる相手の眼の中に、心進まぬことを、真実を知りたがっていないことを、読みとるときに、真実を言うことのできないその苦しさ!……
「そうだ、そうだ、ありがとう、ほんとにありがとう……。」と
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