ブラウンは言った。
 彼はまだ何か尋ねたいことがありながら、相手の視線を避けて言い出しかねてるようなふうで、クリストフの袖《そで》をつかまえていた。それから彼は手を離し、溜《た》め息をつき、そこを立ち去った。
 クリストフは自分の新たな虚言に圧倒された。彼はアンナのもとへ駆けていった。心乱れて口ごもりながら、ありし次第を話してきかした。アンナは沈鬱《ちんうつ》な様子で耳を傾けて、そして言った。
「じゃあ知らせるがいいわ! 構うものですか。」
「どうしてあなたはそんなことを言うんです!」とクリストフは叫んだ。「どうしても、どうしても、私はあの人を苦しめたくない。」
 アンナは怒った。
「苦しめるのがなんです? 私も苦しんでるじゃありませんか。あの人も苦しむがいい!」
 二人は苦々《にがにが》しい言葉を言い合った。彼は彼女が自分自身ばかりを大事にしてるのをとがめた。彼女は彼が彼女のことよりも夫のことを多く考えてるのを非難した。
 しかしすぐそのあとで、もうこんなふうでは生きていられないから、ブラウンへすっかり白状しようと、彼が言い出したとき、こんどは彼女のほうで、彼を利己主義者だとし、彼の良心なんかはどうだって構わないが、ブラウンには何にも知らしてはいけないと叫びたてた。
 彼女はその冷酷な言葉にもかかわらず、クリストフと同じようにブラウンのことを多く考えていた。夫にたいする真の情愛はもっていなかったけれど、やはり夫に執着していた。二人でうち建ててる社会的|連繋《れんけい》と義務とについて、敬虔《けいけん》な尊敬をいだいていた。妻たる者は善良にしていて夫を愛すべきものだとは、おそらく考えてはいなかったろうけれど、自分は世帯の務めを残らず果たしてかつ夫に忠実でなければならないと、彼女は考えていた。自分のようにその義務を欠くことは、卑しむべきことのように彼女には思えた。
 そしてクリストフよりもよく彼女は、やがてブラウンにすべてがわかるに違いないということを知っていた。そして、クリストフの悩みを増させたくないためか、あるいはむしろ高慢の心からか、彼女がそのことをクリストフに隠しておいたのは、多少ほむべきことであった。

 ブラウンの家はきわめて外部との交渉が少なく、その中で行なわれてる通俗な悲劇はきわめて秘められていたけれど、その多少はすでに外部へ伝わっていた。
 この町では、だれも自分の生活を隠しおおせることができない。それは不思議な事柄である。街路にはだれも諸君をながめてる者はいない。人家の戸も窓も閉め切ってある。しかし窓の隅《すみ》に多くの鏡がある。通り過ぎるときには、鎧戸《よろいど》の開け閉めされるきつい音が聞こえる。だれも諸君のことを気にしてはいず、諸君を見知ってる者もいないようである。しかし、自分の言葉や身振りが一つとして見落とされてはいないことに、やがて諸君は気づくだろう。諸君のなしたこと、言ったこと、見た物、食べた物、すべてが知られている。人々は諸君の考えたことまでも知っている、知っていると自惚《うぬぼ》れている。一般の隠密な監視が諸君を取り巻いている。召使、御用商人、親戚《しんせき》、友人、無関係者、見知らぬ通行人、などすべての者が、暗黙の間に一致して、偵察《ていさつ》に力を合わせている。しかもかかる本能的な偵察では、方々に散らばってる各要素が、不思議にも一つに集まってくるのである。人々はただに諸君の行為を観察してるばかりでなく、諸君の心をも探索している。この町においては、だれも自分の本心の秘密を守るだけの権利をもたない。しかも、他人の中をのぞき込み、その内部の思想を穿鑿《せんさく》し、もしそれが一般の意見に背馳《はいち》するようなものであるときには、その説明を求める、という権利を各人がもっている。集団の魂の眼に見えない専制主義が、各個人の上に重くのしかかっている。個人はその生涯《しょうがい》を通じて後見されてる子供のようなものである。彼のもの何一つ彼の所有ではない。彼は町に属してるのである。
 アンナが日曜日に引きつづいて二度も教会堂に姿を見せなかったということは、嫌疑《けんぎ》をひき起こすに十分だった。普通のときにはだれも、彼女が礼拝に列してることを気にも止めていないようだった。彼女は一人離れて暮らしていて、町の人々は彼女の存在を忘れてるかのようだった。――ところが、彼女がやって来なかった初めの日曜日の晩には、彼女の欠席は方々に知れ渡って記憶の中にしるしとめられた。つぎの日曜日には、聖書の中や牧師の唇《くちびる》の上の神聖な言葉をたどってる、信仰深い眼の一つとして、その真面目《まじめ》な注意をそらしてるものはないらしかった。しかしどの眼もみな、アンナの席が空《あ》いてることを、はいって来るときに認め、出て行くとき
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