みに、自分の額を休めたいとの欲求を、だれよりもいっそう持ってるものである……。
しかしクリストフはそんなことを理解していなかった……。情熱の宿命を――浪漫主義作家の戯言《ざれごと》を、彼は信じていなかった。戦うべき義務と力とを信じていた。自分の意志の力を信じていた……。しかも彼の意志は、それはどこにあったか? その痕跡《こんせき》さえ残ってはいなかった。彼は取り憑《つ》かれていた。思い出の針に昼も夜も悩まされた。アンナの身体の匂《にお》いが口や鼻を焦がしていた。彼はあたかも、舵《かじ》を失い風に任された重々しい破船に似ていた。いたずらに逃げようとして骨折った。しかしやはり同じ場所に引きもどされた。そしては風に向かって叫んだ。
「俺《おれ》を吹き砕け! 俺をどうするつもりなのか?」
なんで、なんであの女を……なんであの女を愛してるのか? 彼女の心と精神との特長のためにか? だがもっと聡明《そうめい》なりっぱな女が乏しくはなかった。またそれは彼女の肉体のためにか? だが彼はもっと自分の官能を喜ばす情婦を他に所有したことがあった。それではいったい何が彼をとらえていたのか?――「人は愛するがゆえに愛す」――そこにこそ、普通の理由を過ぎ越えた一つの理由がある。狂気の沙汰《さた》というか? それはなんらの意味をもなさない。その狂気沙汰はなにゆえであるか?
それは、人がおのれのうちに閉じこめてる、一つの隠れたる魂が、もろもろの盲目な力が、悪魔が、存するからである。人間が存在して以来人間の全努力は、その内心の海洋にたいして、理性と宗教との堤防を築くことに向けられてきた。しかしながら暴風雨が襲来し(そしてもっとも豊富な魂はもっとも暴風雨を受けやすい)、堤防は破壊され、悪魔は自由の身となり、同様な悪魔から煽《あお》り立てられてる他の魂と相面して立つ……。それらがたがいに飛びついてつかみ合う。憎か? 愛か? 相互破壊の狂乱か?――情熱、それこそ獰猛《どうもう》な魂である。
逃げ出そうと無駄《むだ》な努力を二週間つづけたあとに、クリストフはアンナの家にもどって来た。もはや彼女と離れて生きることができなかった。息がつけなかった。
それでも、彼はなお闘《たたか》いつづけた。彼がもどって来た晩、二人は口実を設けて顔を合わせもせず、食事もいっしょにしなかった。夜になると、どちらも自分の室の中に、おずおずと鍵《かぎ》をかけて閉じこもった。――しかしなんとしても力及ばなかった。夜中に、彼女は素足のまま逃げ出してきて、彼の室の扉《とびら》をたたいた。彼は扉を開いた。彼女は寝床の中にはいってきた。彼のそばに冷たくなって横たわった。声低く泣き出した。彼はその涙が自分の頬の上に流れるのを感じた。彼女は気を静めようとつとめた。しかし苦悩に打ち負けた。クリストフの首に唇《くちびる》を押しあててすすり泣いた。その苦悶《くもん》に惑乱されて彼は自分の苦悶を忘れた。やさしい慰めの言葉をかけて彼女を落ち着かせようとした。彼女は嘆いた。
「私は悲しい。死んでいたほうがよかった……。」
彼女の訴えは彼の心をつき刺した。彼は彼女を抱擁しようとした。彼女はそれを押しのけた。
「私はあなたが嫌《きら》いです!……なぜあなたはいらしたんです?」
彼女は彼の腕から脱して、寝台の向こう側に身を投げ出した。寝台は狭かった。二人はたがいに避けようとしたが、やはり触れ合った。彼女は彼のほうへ背中を向けて、怒りと悩みに震えていた。死ぬほど彼を憎んでいた。彼は圧倒されて黙っていた。沈黙のうちに、彼女は彼の押え止めてる息を聞きとった。彼女はにわかに向き返って、彼の首を両腕で抱いた。
「ああクリストフ!」と彼女は言った、「私あなたを苦しまして……。」
初めて彼は、彼女からそういう憐《あわ》れみの声を聞いたのだった。
「許してください。」と彼女は言った。
彼は言った。
「おたがいに許し合いましょう。」
彼女はもう息がつけないかのように身を起こした。寝床の中にすわり、がっかりして背をかがめて、彼女は言った。
「私はもう駄目《だめ》……それが神の心だから。私は神に見捨てられたのです……。神に反対して私に何ができましょう?」
彼女は長くそのままでいた。それからまた横になって、もう少しも動かなかった。仄《ほの》かな明るみが黎明《れいめい》を告げた。薄ら明かりの中に、彼は自分の顔に接してる痛ましい顔を見てとった。
彼はささやいた。
「夜が明けた。」
彼女は身動きもしなかった。
彼は言った。
「よろしい、構やしない。」
彼女は眼を開き、たまらなく懶《ものう》い表情で床から出た。寝台の縁に腰かけて、床《ゆか》板をながめた。
何の色合いもない声で言った。
「私昨夜あの人を殺そうかと思った。」
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