うふうに彼女が静かに嘆息するのを、彼は耳に聞くような気がした。しかし彼女は、自分が幸福であることや、すべてがよいということ以外には、何にも考えてはいなかった。
もう夕暮れになりかけていた。紫がかった灰色の靄《もや》の帷《とばり》の下に、すでに四時ごろから、太陽は生き疲れて姿を隠した。クリストフは立ち上がって、アンナに近寄った。彼女の上をのぞき込んだ。彼女は大空に浮かんでるような眩暈《めまい》をまだいっぱいたたえてる眼つきを、彼のほうへ向けた。数秒かかってようやく彼を見てとった。するとその眼は、惑乱を伝える謎《なぞ》のような微笑を浮かべて、彼をじっと見つめた。その凝視からのがれるために、彼はちょっと眼を閉じた。ふたたび眼を開いたが、やはり彼女からながめられていた。そして彼には、幾日も二人はそういうふうに見合ってたような気がした。たがいに魂の中を読みとってるのだった。しかし何を読みとったかを、二人は知ろうと欲しなかった。
彼は彼女に手を差し出した。彼女は一言もいわずにその手をとった。二人は村のほうへもどっていった。向こうの谷間の低い所に、スペードの一の形に帽をかぶった村の塔が見えていた。その塔の一つは、苔生《こけむ》した瓦《かわら》屋根の頂に、あたかも額に縁無し帽子をかぶったかのように、鵠《こうのとり》の空巣《あきす》をつけていた。村の入り口に遠い十字路で、二人は泉の前を通りかかった。泉の上には、カトリック教の小さな聖女、優雅なちょっと可憐《かれん》な木製のマドレーヌ像が、両腕を差し出して立っていた。アンナは像の姿に答えて、本能的な動作で自分の両腕を差し出し、それから縁石の上に上って、柊《ひいらぎ》の枝や、鳥に啄《ついば》み残され凍り残されてる清涼茶の赤い実の房《ふさ》を、その美しい女神の両手にいっぱい供えた。
二人は道の上で、日曜服をつけてる百姓の男女の群れと行き違った。女たちは、ごく浅黒い肌《はだ》をし、ごく色のいい頬《ほお》をして、房々《ふさふさ》とした髪を貝殻《かいがら》形に結《ゆわ》え、派手な長衣や花の帽子をつけていた。白い手袋をはめ赤い袖口《そでぐち》を見せていた。そして鋭い声で、平板にあまり正確でもなく健全な歌をうたっていた。ある家畜小屋の中では、牝牛《めうし》が鳴いていた。百日|咳《ぜき》にかかってる一人の子供が、ある家の中で咳をしていた。それから少し遠くには、鼻声めいたクラリネットの音やコルネットの音が聞こえていた。飲食店と墓地との間の村の広場では、人々が踊っていた。一つのテーブルに乗って四人の音楽家が演奏していた。アンナとクリストフとは飲食店の前に腰をおろして、踊ってる人たちをながめた。各組がたがいにぶつかり合って大声で悪口を言い合っていた。娘たちはただ叫ぶのが面白くて叫びたてていた。酒を飲んでる人たちは拳固でテーブルをたたいて拍子を取っていた。他のときだったら、その鈍重な喜びの光景をアンナは不快がったに違いない。がその夕、彼女はかえって面白がった。彼女は帽子をぬいで生き生きとした顔つきでながめた。クリストフはその音楽と音楽家らとの滑稽《こっけい》な荘重さに放笑《ふきだ》した。彼はポケットの中を探って鉛筆を取り出し、飲食店の勘定紙の裏に、棒や点を引き始めて、踊りの曲を書きしるした。紙は間もなくいっぱいになった。彼はなお幾枚も紙をもらって、最初の一枚と同様に、気短かな無器用な太い筆跡でぬりつぶした。アンナは彼の頬《ほお》に自分の頬を寄せて、肩越しに読み取りながら小声で歌った。そして楽句の終わりを推察しようとつとめ、うまくあたったときや、意外の機知で推測がそらされるときには、はたと手をたたいた。クリストフは書き終えると、それを音楽家どものところへもっていった。彼らは己が仕事に通じてるりっぱなシュワーベン人だった。つまずかずに演奏していった。その節《ふし》は感傷的なかつ道化《どうけ》た気分のもので、あたかも哄笑《こうしょう》で句読づけられたかのようなごつごつした律動《リズム》をもっていた。その強烈な滑稽味にはとても抵抗できなかった。足が自然と踊り出してくるのだった。アンナはロンドの中に飛び込み、手当たりしだいに二つの手をとらえ、気でも狂ったように踊り回った。鼈甲《べっこう》の留め針が髪からぬけ落ちた。房々とした髪がほどけて頬にたれ下がった。クリストフは彼女から眼を放さなかった。そしてその強健な美しい動物に感嘆した。それは今まで、無慈悲な規律に縛られて、沈黙と不動とを守っていたのである。彼には彼女が、今までだれも気づかなかったような女に見えてき、力に酔った酒神|巫女《みこ》とも言えるその仮面に、ちょうどふさわしい女に見えてきた。彼女は彼を呼んだ。彼は彼女に駆け寄ってとらえた。二人は踊りに踊って、踊り回りながら壁に
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