ぶつかりまでした。そして茫然《ぼうぜん》と立ち止まった。日はすっかり暮れていた。二人はちょっと休んで、それから踊り仲間に別れを告げた。気恥ずかしさと軽蔑《けいべつ》とで下層の人々に平素あれほど剛直だったアンナは、音楽家たちや飲食店の主人や、ロンドの中で相並んだ村の若者たちに、やさしく手を差し出した。
彼らは朝通ってきた道をたどって、畑を横ぎりながら、輝き凍ってる空の下に、また二人きりとなった。アンナはまだ興奮していた。けれどしだいに口数が少なくなり、つぎには疲労にとらえられてか、あるいは夜の神秘な情緒にとらえられてか、まったく話しやめてしまった。しとやかにクリストフにもたれていた。数時間前によじ上った坂を降りながら、彼女は溜《た》め息をついた。二人は停車場に到着しかけた。とっつきの人家の近くで、彼は立ち止まって彼女をながめた。彼女も彼をながめて、憂鬱《ゆううつ》に微笑《ほほえ》みかけた。
汽車の中は来るときと同じように込んでいた。二人は話をすることができなかった。彼は彼女の正面に腰掛けて、彼女をじっと見守った。彼女は眼を伏せていた。ちょっと彼のほうへ眼をあげ、そしてまた眼をそらしてしまった。そして彼はもう彼女の眼を自分のほうへ向けさせることができなかった。彼女は車外の闇《やみ》の中をながめていた。その唇《くちびる》は、片隅に少し疲労の影を見せながら、ぼんやりした微笑を浮かべていた。つぎにはその微笑も消えた。表情は陰鬱になった。彼は彼女が汽車の動揺にうとうとしてるのだと思って、言葉をかけてみた。彼女はふり向きもしないで、ただ一言冷やかに答えた。彼女のそういう態度の変化は疲労のせいだと、彼は無理にも思い込もうとした。しかし別な理由であることをよく知っていた。町に近づくに従って、彼が見ると、アンナの顔は凍りつき、生気は消え失せ、野性的な優美さをもってるその美しい身体は、石の外皮の中にまたはいり込んでいった。汽車から降りるときも、彼が差し出した手にすがらなかった。二人は黙々として帰って来た。
数日後、午後の四時ごろ、彼らは二人きりいっしょになった。ブラウンは外出していた。前日来、町はうす緑の霧に包まれていた。河は見えないがその音は高まっていた。電車の火花が靄《もや》の中にひらめいていた。日の光はさえぎられて消えていた。いつのころの明るみともわからなかった。現実の意識が失われる時間の一つであり、世紀の外に存在する時間であった。数日来の鋭い北風のあとに、湿った空気がにわかに和らいで、なま暖かく柔らかになっていた。空は雪をいっぱい含んで、その重みの下に低くしなっていた。
彼らは客間に二人きりだった。客間の冷やかな偏狭な趣味は、女主人の趣味を反映していた。二人は何も口をきかなかった。彼は書物を読んでいた。彼女は針仕事をしていた。彼は立ち上がって窓のところへ行った。その窓ガラスに大きい顔を押しあてて、じっと夢想にふけった。薄暗い空から鉛色の地上へ反射してるその蒼《あお》ざめた光は、彼の心を昏迷《こんめい》さした。彼の思いは乱れた。いくらその思いをはっきりさせようとしても、とらえることができなかった。ある悩みに浸されていった。自分がめいりこむような気がした。そして彼の一身の空虚の中に、積もり重なった廃墟《はいきょ》の奥から、一つの熱風がゆるやかに渦《うず》巻いて起こってきた。彼はアンナのほうへ背を向けていた。アンナは彼を見ないで仕事に没頭していた。しかし軽い戦慄《せんりつ》が彼女の身体を流れていた。何度も針を自分の身に刺したがそれを感じなかった。彼らは二人ともさし迫ってる危険に魅せられていた。
彼は惘然《ぼうぜん》たる状態から身をもぎ離して、室の中を少し歩いた。ピアノに心ひかれまた脅かされた。ピアノを見ないようにした。しかしそのそばを通りかかると、手を差し出さずにはいられなかった。手は一つの鍵《キー》に触れた。その音《おん》は声のように震えた。アンナはぞっとして仕事を取り落とした。クリストフはもう腰をおろしてひいていた。アンナが立ち上がり、やって来て、そばに立ってるのを、彼は眼に見ないでも気づいた。自分が何をしてるかも知らないで彼は、彼女が初めて正体を示して歌ったあの宗教的な熱烈な曲をひいた。またその主題に基づいて激越な変奏曲を即興にひいた。彼が一言もいわないのに、彼女は歌い始めた。二人は周囲の事柄をうち忘れた。音楽の神聖な熱狂にしかととらえられた……。
おう、魂の深淵《しんえん》をうち開く音楽よ! 汝は精神の平素の均衡を滅ぼす。尋常の生活においては、尋常の魂は閉《と》ざされたる室である。その内部にて、用途のないもろもろの力は、使用がはばかられる美徳や悪徳は、萎《な》えしぼんでゆく。実際的な賢い理性が、卑怯《ひきょう》な常識が、室
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