りと見て、クリストフよりどのくらい先んじてるかを測った。彼は彼女に近まってきた。彼女は森の中に飛び込んだ。枯れ葉が二人の足の下に音をたてた。彼女がかき分けた木の枝は彼の顔を打った。彼女は木の根につまずいた。彼は彼女をとらえた。彼女は身をもがいて、手足を打ち振り、彼をひどくひっぱたき、彼を倒そうとした。叫んだり笑ったりした。その胸は彼にもたれかかってあえいでいた。二人の頬《ほお》は触れ合った。彼は彼女の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》をぬらしてる汗を吸った。彼女のしっとりした髪の匂《にお》いを嗅《か》いだ。彼女は強い力で彼を押しのけて身をのがれ、見くびった眼つきで泰然と彼をながめた。彼は彼女のうちにある力にびっくりした。彼女はその力を平素の生活には少しも用いていなかった。
足の下にはね返る乾《かわ》いた藁《わら》を楽しく踏みしだきながら、二人はつぎの村まで行った。彼らの前には、畑に群がってる烏《からす》が飛び立った。日が暖かく照って鋭い北風が吹いていた。彼はアンナの片腕を取っていた。彼女はあまり厚くない長衣をつけていた。彼はその服地の下に、暖かく汗にぬれてる彼女の身体を感じた。彼は彼女に外套を着せようとした。彼女はそれを拒んで、空威張りに襟《えり》の留め金まではずした。「野蛮人」の像のついた看板を出してる飲食店で、二人は食卓についた。入り口には小さな樅《もみ》が一本生えていた。室の装飾としては、幾つかのドイツ語の四行詩、春に[#「春に」に傍点]という感傷的なのとサン[#「サン」に傍点]・ジャックの戦い[#「ジャックの戦い」に傍点]という愛国的なのと、二つの着色石版画、それから、根本に一つの頭蓋骨《ずがいこつ》がついてる十字架があった。アンナは今までクリストフが知らなかったほど大食した。二人は強い白|葡萄《ぶどう》酒を元気に飲んだ。食後にはまた、仲よさそうに畑の中を歩きだした。なんらの不純な考えもなかった。二人の思いはただ、歩行や歌ってる血潮や吹きつける空気などの快さばかりに向いていた。アンナの舌はほどけてきた。彼女はもう狐疑《こぎ》してはいなかった。なんでも頭に浮かんでくるままをすぐ口に上せた。
彼女は幼年時代のことを話した。祖母は彼女を、大寺院のそばに住んでる友だちの家へよく連れていった。二人の老婦人たちが話してる間、彼女は広い庭の中に追いやられた。庭には大寺院の影が重く落ちていた。彼女は片隅《かたすみ》にすわったまま身動きもしなかった。木の葉のそよぎに耳を傾け、虫の群がってるのをうちながめていて、面白くもあれば恐《こわ》くもあった。――彼女は悪魔を恐れていたことを省略した。当時彼女の想像は悪魔につきまとわれていた。悪魔が教会堂の中にはいることができないで、まわりをうろついている、という話をきかされていた。そして彼女は、蜘蛛《くも》や蜥蜴《とかげ》や蟻《あり》など、木の葉の下、地面の上、または壁の裂け目に、うようよしてる、無格好な小さな動物の形の下に、悪魔を見るような気がしていた。――それから彼女は、自分の住んでた家のこと、日の射《さ》さない自分の室のこと、などを話した。彼女はそんなものを喜んで思い起こした。眠れない夜をそこで過ごしながらいろんなことを考えめぐらしたのだった……。
「どんなことですか。」
「馬鹿げたことですわ。」
「話してください。」
彼女は嫌《いや》だと頭を振った。
「なぜです?」
彼女は顔を赤らめ、つぎには笑って、言い添えた。
「そして昼間働いてる間もそうでした。」
彼女はそのことをちょっと考え、ふたたび笑って、こう言葉を結んだ。
「それは馬鹿げたことなんです、いけないことなんです。」
彼は冗談に言った。
「では恐《こわ》くなかったんですね。」
「何が?」
「神の罰を受けるのが。」
彼女の顔は冷たくなった。
「そんなことを言ってはいけません。」と彼女は言った。
彼は話頭を転じた。先刻争いながら彼女が示した力をほめた。彼女はまた信頼の表情に返って、小娘時代の乱暴を話した――(彼女は「腕白小僧時代の……」と言った。というのは、彼女は子供のころ、男の児《こ》の遊びや喧嘩《けんか》にはいりたがっていたから。)――あるときなんかは、自分より首だけ背の高い男の友だちといっしょになって、突然|拳固《げんこ》を食《くら》わした。きっと返報されることと思っていた。ところがその男の児は、彼女になぐられたと喚《わめ》きながら逃げていった。またあるときは、田舎《いなか》で、草を食ってる黒牛の背中によじ登った。牛は驚いて、彼女を樹木にたたきつけた。危うく死ぬところだった。また彼女は、二階の窓から飛べやしないと自分で思ったために、かえってそれをほんとうにやってみた。幸いにもちょっと身体をくじいただ
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