を彼は知っていた。そういう場合には女を静かにさしておいて、その精神が浸ってる無意識的な危険な世界に、光を投じようとしてはいけないし、ことに女自身で光を投じさせようとしてはいけない、と彼は考えていた。それでも彼は、アンナの健康を心配しだした。そして彼女の衰弱は、けっして町から外に出ずに、ほとんど家から外へも出ずに、いつも閉じこもってばかりいる、その生活状態から来たものだと判断した。そして彼女を散歩させたがった。しかし彼はほとんどその供をすることができなかった。日曜日には、彼女は信仰上の務めに縛られていた。他の日には、彼のほうで診察の用務があった。クリストフのほうは、彼女といっしょに外出するのを避けていた。一、二度二人はいっしょに、町はずれまで短い散歩をしたことがあった。そして飽き飽きしてしまった。話は途絶えがちだった。アンナには自然も存在していないかのようだった。彼女は何にも眼にとめなかった。彼女にとってはどの土地も草と石ばかりだった。彼女の無感覚さは人をぞっとさせるほどだった。クリストフは彼女に美しい景色を嘆賞させようとつとめた。すると彼女はうちながめて、冷やかに微笑《ほほえ》み、彼を不快がらせまいと努力しながら言った。
「ええ、ほんとに妙ですこと……。」
 それはたとえばこう言うのと同じだった。
「たいへん日が当たっていますわね。」
 クリストフはいらだって、爪《つめ》が掌《たなごころ》にくい込むほど拳《こぶし》を握りしめた。それからはもう何にも尋ねなかった。そして彼女が外出するときには、何か口実を設けて家に残っていた。
 実を言えば、アンナが自然について無感覚であるというのは嘘《うそ》であった。彼女は人が一般に美しい景色と呼ぶものを好まなかった。それと他の景色とを区別しなかった。そして田舎《いなか》でさえあればどんな田舎でもそれを――土地と空気とを――好んでいた。ただ彼女は、自分の他の強い感情に気づいていないと同様に、そのことにも気づいていなかった。そして彼女といっしょにいる者も、なおさらそのことに気づかなかった。
 ブラウンはしつっこく言い張って、一日の郊外遠足を妻にさせることにした。彼女はうるさくなって平和を得るために譲歩した。その散策は日曜日にきめられた。ところがその間ぎわになって、子供らしく喜んでいた医者のブラウンは、急病患者のために引き止められた。クリストフとアンナとは出かけた。
 雪のない冬の晴天、清い冷やかな空気、澄みきった空、輝いてる太陽、寒い北風があった。二人は小さな地方鉄道に乗った。町の周囲に遠い円光の形をしてる青い丘陵の幾筋、その一つと合してる鉄道だった。二人が乗り込んだ車室はいっぱいだった。二人はたがいに別々になった。言葉を交じえなかった。アンナは陰気な様子をしていた。前日彼女は、ブラウンが非常に驚いたことには、明日の礼拝には行かないと言い出した。生涯《しょうがい》に初めて欠席するのだった。それは一つの反抗だったろうか?……彼女のうちに行なわれた闘《たたか》いを誰が言い得よう? 彼女は自分の前の腰掛をじっと見つめていた。蒼《あお》ざめていた……。
 二人は汽車から降りた。敵対的な冷淡さは、散歩の初めの間少しも消えなかった。二人は並んで歩いた。彼女はしっかりした足取りで歩み、何事にも注意を払わず、両手は空《から》だった。その腕はぶらぶら打ち振られ、その踵《かかと》は凍った地面の上に音をたてた。――少しずつ、彼女の顔は生き生きとしてきた。早く歩いてるために、その蒼白い頬《ほお》に赤みがさしてきた。その口は爽《さわや》かな空気を吸うために開いてきた。曲がりくねって上ってる小径の角のところに行くと、彼女は山羊《やぎ》のように一直線に丘をよじ登り始めた。ころげ落ちる危険を冒して石坑にそい、灌木《かんぼく》につかまっていった。クリストフもあとにつづいた。彼女はすべったり両手で草にすがりついたりして、彼より早く登っていった。クリストフは待ってくれと呼びかけた。彼女はそれに返辞もせずに、四つ匐《ばい》になって登りつづけた。二人は木の茂みに引っかかれるのも構わずに、銀色のガスのように谷の上に漂ってる霧の中を横ぎった。上の方に行くと暖かい日の光の中に出た。頂上に達して彼女は振り向いた。その顔は輝いていた。口はうち開いて息をしていた。彼女は皮肉な眼つきで、坂をよじ登ってくるクリストフをながめ、外套《がいとう》をぬいで、それを彼の鼻先に投げつけ、彼が息をつくのも待たないで、また駆けだした。クリストフはそれを追っかけていった。二人はその遊びが面白くなってきた。空気に酔っていた。彼女は急な坂をめがけて進んでいった。ころころした石ばかりだった。が少しもつまずかなかった。すべったり飛んだり矢のように走ったりした。ときどき後ろをじろ
前へ 次へ
全92ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング