り」、第3水準1−93−84]《ふいご》のようにそれらを迸《ほとばし》り出させる。それが民衆の思想である。煙と火との集まり、火花の雨であって、消えては燃え燃えては消える。しかし晩とするとその火花の一つが、風に吹き送られて、有産階級の豊富な藁堆に火災を起こさせる……。
 オリヴィエの尽力でエマニュエルはある印刷所にはいることができた。それは子供の希望だった。祖父もそれに反対はしなかった。彼は孫が自分より物識《ものし》りになるのを喜んでいた。そしてまた、印刷所のインキにたいして尊敬をいだいていた。ところでこの新しい職業では、前の職業にいるときより仕事はいっそう骨が折れた。しかし少年は多くの職工の間に交じって、祖父のそばに一人で店にいたときよりも、いっそう自由に考えることができるような気がした。
 いちばんうれしいのは昼食のときだった。往来のちょっとした飲食店や町内の酒屋などにはいってゆく労働者の人|雪崩《なだれ》から離れて、彼は近くの辻《つじ》公園のほうへとぼとぼと逃げ出していった。そしてそこで、一|房《ふさ》の葡萄《ぶどう》を手にもって踊ってる半羊神の青銅像のそばの、大栗の木陰のベンチにまたがり、油紙に包んだパンと一片の豚肉とをほどいて、雀《すずめ》に取り巻かれながらゆるゆる味わうのだった。緑の芝生《しばふ》の上には、小さな噴水がその細かな雨を霰《あられ》の網のように降らしていた。日を受けた一本の樹木の中には、眼の丸い青石盤色の鳩《はと》が鳴いていた。そして周囲には、パリーの不断のどよめき、車の轟《とどろ》き、海のような足音、街路の聞き馴《な》れた叫声、陶器修理者のおどけた蘆笛《あしぶえ》の遠音、舗石の上をたたいてる土工の金槌《かなづち》の音、噴水の気高い音楽――すべてパリーの夢の熱っぽい金色の外皮……。そしてこの佝僂《せむし》の少年は、ベンチの上に馬乗りになり、口いっぱいに頬張《ほおば》った食物を急いで呑《の》み下そうともせずに、楽しい夢心地のうちにうっとりとなって、もう自分の痛む背骨や病弱な魂をも感じなかった。彼はぼんやりした酔い心地の幸福に浸っていた……。

 ――温かい光よ、われわれのために明日輝き出すべき正義の太陽よ、汝はもうすでに輝いているのではないか。すべてはかくも善く、かくも美しい! 人は富者であり、強者であり、健康であり、愛している……。予は愛している、予は万人を愛している、万人は予を愛している……。ああ人はいかに仕合わせぞ! 明日人はいかに仕合わせになることぞ!……

 工場の汽笛が響いていた。少年は我に返って、頬張《ほおば》っている食物を呑み下し、近くの水道|栓《せん》でぐっと水を飲み、それからまた佝僂《せむし》の背中をかがめながら、跛のよちよちした足取りで、印刷所の受持場所へ帰り、革命のメネ[#「メネ」に傍点]・テケル[#「テケル」に傍点]・ウパルシン[#「ウパルシン」に傍点](数えられぬ、秤《はか》られぬ、分かたれぬ)を他日書くべき、魔法の活字の箱の前に就いた。

 フーイエ親父《おやじ》には、街路の向こう側に住んでる紙屋で、トルーイヨーという旧友があった。その紙雑貨店の店先には、ガラス器にはいった赤や緑のボンボンだの、手も足もないボール紙の人形などが見えていた。往来の両側で、一方は入り口の敷居の上で、一方は店の中で、二人は目配せをしあったり、頭を動かしあったり、その他いろんな無言の身振りをしあった。どうかすると、古靴屋が靴底をたたくのに倦《う》み疲れて、彼の言葉に従えば臀《しり》にしびれが切れてくるようなときには、ラ・フーイエットはその甲高いきいきい声で、トルーイヨーは牛の嗄《しわが》れ声のようなはっきりしない唸《うな》り声で、たがいに呼びあった。そしていっしょに、近くの酒屋へ一杯飲みに行った。するとなかなかもどって来なかった。二人はこの上もない饒舌《じょうぜつ》家だった。約五十年来の知り合いだった。紙屋のほうもやはり、一八七一年の大活劇にちょっと端役《はやく》をつとめたことがあった。でも見たところそういう人物だとは思えなかった。温和な大男で、頭には黒い丸帽をかぶり、白い仕事服をつけ、老兵士みたいな灰色の口|髭《ひげ》を生やし、赤筋の立った薄青いぼんやりした眼をし、眼の下の眼瞼《まぶた》が落ちくぼみ、頬はいつも汗ばんで柔らかで艶々《つやつや》していて、神経痛の足を引きずり加減に歩き、息が短く、舌が重かった。しかし彼は昔の幻想を少しも失ってはいなかった。数年間スイスに逃亡したことがあって、そこで各国の同志に出会い、ことにロシア人に多く出会って、親和的な無政府制の美点を教え込まれたのだった。この方面については、彼はラ・フーイエットと意が合わなかった。というのは、ラ・フーイエットは古いフランス人で、強硬手段
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