[#「幼年時代の思い出」に傍点]を読んできかした。が少年はそれに心を打たれはしなかった。彼は言った。
「ああ、そのとおりだ、そんなこたあ知ってますよ。」
そして彼は、現実的な事柄を書くのにそんなに骨折るわけが、会得できなかった。
「そりゃあ子供です、あたりまえの子供ですよ。」と彼は軽蔑《けいべつ》したように言った。
彼はまた歴史にもあまり興味を覚えなかった。そして科学には退屈した。それは妖精《ようせい》物語にたいする無味乾燥な序文のように思われた。人間の用に供せられた眼に見えない力であって、恐ろしくはあるがすっかり圧倒されてる精霊なのだった。そんなに多くの説明がなんの役にたつものか。何かを見出したときには、どうしてそれを見出したかを言う必要はない。何を見出したかと言えばよい。思想の解剖は中流人の贅沢《ぜいたく》である。民衆の魂にとって必要なものは、総合である。善かれ悪しかれでき上がってる、否むしろ善くよりも悪くでき上がってる、しかも実行へ進まんとする、既成の観念である。電気を帯びた人生の粗野な現実である。エマニュエルが理解し得たあらゆる文学のうちで、もっとも彼の心を動したものは、ユーゴーの叙事詩的な哀感と、革命派の演説者たちの煤《すす》色の措辞《そじ》とであった。彼はその演説者たちをよく理解してはいなかった。また彼ら自身も、ユーゴーと同様に、いつも自分自身を理解してるわけではなかった。世界は彼にとっては、彼らにとってもそうであるが、条理もしくは事実のりっぱな連絡がある集合体ではなくて、影に浸され光に震えている無窮の空間であって、その闇夜の中には日光に輝いた大きな羽搏《はばた》きが通り過ぎてるのだった。オリヴィエは彼に中流人的な論理を教え込もうとしたが駄目《だめ》だった。退屈してる反発的なその魂は、いつもオリヴィエの手から逃げ出していた。そして、恋せる女が眼をつぶって身を任せるのと同様に、幻惑せる感覚の朦朧《もうろう》たる擾乱《じょうらん》の境地に楽しんでいた。
オリヴィエは、この少年のうちに感ぜらるる自分にきわめて近いもの――孤独、傲慢《ごうまん》な気弱さ、理想家的熱烈さ――から、また、自分にきわめて異なったもの――不平衡な精神、盲目的な狂的な願望、普通の道徳が規定してるような善悪の観念をもたない肉感的な野性――から、同時にひきつけられかつ驚かされた。彼はその野性の一部を瞥見《べっけん》してるばかりだった。少年の心の中に唸《うな》ってる濁った情熱の世界には、けっして気づかなかった。われわれ中流人は伝統的遺伝のためにあまりに賢くなっている。自分自身のうちを内省することさえなし得ないでいる。正直な男子がいだく夢想やあるいは貞節な女の体内に起こる欲望などを、その百分の一でも口にするならば、人は醜怪だと叫び出すかもしれない。それらの怪物はそっとしておくがよい。鉄格子で閉じこめておくがよい。しかしそれが存在してるということを知っていなければならないし、新しい魂のうちでは今にも飛び出そうとしてるということを知っていなければならない。――人が皆|挙《こぞ》って邪悪だと見なすようなあらゆる淫猥《いんわい》な欲望を、この少年はもっていた。それが突風のように不意にさっと起こってきて、彼をつかみ取った。それは彼が醜くて孤立してるだけになおさら熱烈だった。オリヴィエはそのことを少しも知らなかった。オリヴィエの前に出るとエマニュエルは恥ずかしかった。その平安の感染を受けた。そういう生活の実例は彼を馴養《じゅんよう》していった。彼はオリヴィエにたいして激しい情愛を感じていた。そして彼の抑圧された情熱は、騒々しい夢想となって跳《は》ね上がった。人類の幸福、全社会の親睦《しんぼく》、科学の奇跡、夢幻的な空中飛行、幼稚な野蛮な詩など――勲功と愚直と淫逸《いんいつ》と犠牲とにみちた勇ましい世界であって、そこで彼の酩酊《めいてい》した意志は彷徨《ほうこう》や熱のうちに揺らめいていた。
彼はそれにふける隙《ひま》を多くもたなかった。ことに祖父の店にいるときはそうだった。祖父は朝から晩まで口笛を吹いたり靴底をたたいたりしゃべったりして、ちょっとの間も静かにしていなかった。しかしいつでも夢想の余地はあるものである。つっ立って眼を開きながら生活の一瞬のうちにも、いかに長時日の夢を人はなし得ることだろう!――それに労働者の仕事は、間歇《かんけつ》的な考えにかなりよく調和するものである。労働者の精神は意志の努力なしには、緻密《ちみつ》な理論のやや長い連鎖をたどるに困難であろう。もしそれをなし得ても、所々に鎖の環《わ》が見落とされる。しかし律動的な運動の合い間合い間には、種々の観念がつみ重なり、種々の幻像が浮かんでくる。身体の「規則的な動作は、鉄工の※[#「韋+備のつく
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