婚にたいするクリストフの不当なやや滑稽《こっけい》な疑懼《ぎく》には、同感できなかった。富は魂を滅ぼすという考えは、クリストフの頭に深く根をおろしていた。あの世のことに気をもんでる富有な女に向かって、ある賢明な乞食《こじき》が言ったつぎの警句を、彼は好んで繰り返したかった。
「なんですって、奥さん、あなたは幾百万も(訳者注 幾百万の財産――幾百万の年齢)もってるのに、なおおまけに、不滅な魂をもちたいのですか。」
「女を信ずるな。」と彼は半ば冗談に半ば真面目《まじめ》にオリヴィエへ言った。「女を信ずるな。ことに金持ちの女を信ずるなよ。女は芸術を愛してるかもしれないが、しかし芸術家を窒息させるものだ。そして金持ちの女は芸術をも芸術家をも奏するものだ。富は一つの病気である。女はその病気に男よりいっそうもろい。金持ちはすべて不健全な者だ。……君は笑うのか。僕の言うことを馬鹿にするのか。なあに、金持ちに人生がわかってるものか。苛酷《かこく》な現実に密接な交渉をもってるものか。悲惨の荒々しい息吹《いぶ》きを、かせぎ出すパンや掘り返す土地の匂《にお》いを、自分の顔に感じてるものか。人間や物事を、理解し得てるものか、眼にだけでも見てるものか。……昔僕は小さいとき、大公爵の馬車に乗って、一、二度散歩に連れてゆかれたことがあった。僕が草の一葉をも知りつくしてる牧場の中を、僕が一人で駆け回ってたいへん好んでる森の間を、馬車は通っていった。ところが馬車の上からは何にも見えなかった。そのなつかしい景色も、僕を連れ出してくれてる馬鹿者どもと同じように、しゃちこばった勿体《もったい》ぶった様子に変わってしまっていた。そのとき牧場と僕の心との間には、それら四角張った魂の奴《やつ》らが介在してるばかりではなかった。足の下のその四、五枚の板、自然の上にのっかって動いてるその台、それだけでもうたくさんだった。大地を自分の母だと感ずるためには、この世の光に顔を出す赤ん坊のように、大地の腹の中に足を踏み入れていなければいけない。人間を大地に結びつけ、大地の児《こ》らをたがいに結びつける糸を、富は断ち切ってしまうのだ。そうなってなんで芸術家になれるものか。芸術家は大地の声なのだ。金持ちは大芸術家にはなれないものだ。かくも運命の恵み薄い金持ちの身分で芸術家になるには、非常な天才がなければいけない。もし芸術家になり得たとしても、なお温室の果実にすぎない。偉大なゲーテといえども、いかに努力しても甲斐《かい》がない。魂の四|肢《し》は萎縮《いしゅく》している、主要な機能は富に滅ぼされてなくなっている。君はゲーテほどの活力ももたないから、富のために蚕食されてしまうだろう。少なくともゲーテが避けていた金持ちの女からは、君はさらに蚕食されてしまうだろう。男子だけが天の災いにたいして反抗し得る。男子のうちには、生来の野性があり、人を大地に結びつける激しい仕合わせな本能の層がある。しかし女にはすっかり毒が回っていて、その毒を他人へも伝える。女は富の悪臭を喜ぶものだ。財産をもっていながらなお心が健全である女は、天才をもってる百方長者と同様に、一種の奇跡と言ってもいい……。それにまた、僕は怪物を好まない。生きるために必要な分け前より以上のものをもってる者は、一つの怪物である――他人をかじってる人間の癌腫《がんしゅ》である。」
オリヴィエは笑っていた。
「だって、ジャックリーヌが貧乏でないからといって、僕はいまさら愛しやめることもできないし、また僕にたいする愛のために、無理に貧乏にならせることもできないからね。」
「それじゃ、彼女を救うことができないとしても、せめて自分自身を救いたまえ。そしてそれはまた、彼女を救うもっともいいやり方なのだ。自分の純潔を保ちたまえ。働きたまえ。」
オリヴィエはクリストフからそういう懸念を伝えられるに及ばなかった。彼はクリストフよりもなおいっそう、反応しやすい魂をそなえていた。といって金にたいするクリストフの奇矯《ききょう》な説を、真面目《まじめ》に受け取ったわけではない。彼自身昔は富裕であったし、富を忌みきらってはしなかったし、ジャックリーヌのきれいな顔には富がふさわしいと思っていた。けれども、自分の恋愛に利害の念が交じってると人に思われることは、堪え得られなかった。彼はふたたび大学の職を求めた。けれど当分のうちは、地方の中学のつまらぬ地位以上のものは得られそうになかった。それはジャックリーヌへの結婚の贈り物としては、あまりに見すぼらしかった。彼はそのことをおずおず彼女に話した。ジャックリーヌは初め、彼の道理を認めかねた。それはクリストフから吹き込まれた誇大な自尊心のゆえだとし、そういう自尊心を滑稽《こっけい》なものだと思った。愛するときには、愛する者の財産
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