きが聞こえてきた。二人は蒼《あお》くなり無言のままで、そこにある井の縁石に相並んで腰をおろした。オリヴィエはジャックリーヌの頬《ほお》に涙が流れてるのを見た。
「泣いていますね。」と彼は唇《くちびる》を震わしてつぶやいた。
 そして彼も涙が流れた。
 彼は彼女の手をとった。彼女は金髪の頭を彼の肩にもたせた。もう逆らおうとしなかった。うち負けてしまった。そしてそれは彼女にとって、どんなにか慰安だったろう!……二人は低く泣きながら、天蓋《てんがい》のような重々しい雲の移りゆく下で、音楽に耳を傾けた。音もなく流れるその雲は、樹木の梢《こずえ》をかすめるかと思われた。二人はこれまで苦しんだことどもを――またはおそらく、これから苦しむことどもを――考えていた。ある場合には、人の運命のまわりに織り込まれてる憂愁がことごとく、音楽のために浮き出されることもある!……
[#バッハの変ホ短調遁走曲の楽譜(fig42597_01.png)入る]
 しばらくして、ジャックリーヌは眼を拭《ぬぐ》ってオリヴィエをながめた。そしてふいに二人は抱擁し合った。ああ得も言えぬ幸福! 敬虔《けいけん》な幸福! 切ないほど甘く深い幸福!……
 ジャックリーヌは尋ねた。
「お姉《ねえ》さんはあなたに似ていらしたの?」
 オリヴィエはぎくりとした。彼は言った。
「どうして姉のことを言うんですか。あなたは知ってたのですか。」
 彼女は言った。
「クリストフさんから聞きましたの……。あなたはたいへんお苦しみなすったのでしょう?」
 オリヴィエは頭をたれた。あまりに感動していて返辞ができなかった。
「私もたいへん苦しんだことがありますの。」と彼女は言った。
 彼女は自分の味方だったなつかしい故人マルトのことを話した。どんなにか泣いたことを、死ぬほど泣いたことを、胸いっぱいになって話した。
「あなた私を助けてくださいね。」と彼女は哀願する声で言った。「私を助けて、生きさして、いい者になして、いくらかあの方のようになさしてくださいね。あのかわいそうなマルト叔母《おば》さんを、あなたも愛してくださいますわね?」
「私たちは亡《な》くなった二人の人を愛しましょう、その二人はたがいに愛し合ってるでしょうから。」
「ああお二人とも生きていらしたら!」
「生きていますよ。」
 二人はたがいにひしと寄り添っていた。胸の動悸《どうき》が感ぜられた。細かな雨が少し降りつづけていた。
 ジャックリーヌは身を震わした。
「帰りましょう。」と彼女は言った。
 木陰はほとんどまっ暗だった。オリヴィエはジャックリーヌの濡《ぬ》れた髪に接吻《せっぷん》した。彼女は彼のほうに顔をあげた。そして彼は初めて、恋に燃えてる唇《くちびる》を、若い娘の小皺《こじわ》のある熱い唇を、自分の唇の上に感じた。二人は気を失わんばかりになった。
 家のすぐ近くで、二人はまた立ち止まった。
「私たちはこれまでほんとに一人ぽっちでした!」と彼は言った。
 彼はすでにクリストフのことを忘れていた。
 二人はクリストフのことを思い出した。音楽はもうやんでいた。二人は中にはいった。クリストフはハーモニュームの上に肱《ひじ》をつき、両手に頭をかかえて、同じく過去のいろんなことを夢想していた。扉《とびら》の開く音を聞いて彼は、その夢想から覚《さ》めて、真面目《まじめ》なやさしい微笑《ほほえ》みに輝いてる親切な顔を、二人に見せた。彼は二人の眼の中に、どういうことがあったかを読み取り、二人の手を握りしめ、そして言った。
「そこにすわりたまえ。何かひいてあげよう。」
 二人は腰をおろした。そして彼は、自分の心にあるすべてのことを、二人にたいするすべての愛情を、ピアノでひいた。それが済むと、三人とも黙ったままじっとしていた。やがて、彼は立ち上がって二人をながめた。彼はいかにも善良な様子で、二人よりずっと年上でしっかりしてる様子だった。ジャックリーヌは初めて、彼がどういう人物であるかを知った。彼は二人を両腕に抱きしめて、そしてジャックリーヌに言った。
「あなたはオリヴィエをほんとに愛してくれますね? 二人ともよく愛し合うでしょうね?」
 二人はしみじみと感謝の念を覚えた。しかしそのあとですぐに、彼は話をそらし、笑い出し、窓のところへ行き、庭へ飛び出した。

 その日以後彼はオリヴィエに向かって、ジャックリーヌの両親へ結婚の申し込みをするように勧めた。オリヴィエは断わられそうなのにびくびくして、申し込みをなしかねた。クリストフはまた、何か地位を捜せと彼を促した。ランジェー夫妻から承諾を得たと仮定しても、彼がみずからパンを得るだけの身分になっていなければ、ジャックリーヌの財産をもらうわけにいかなかった。オリヴィエも同じ考えだった。けれどもただ、金のある結
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