はいつもあまり食欲がなかった)――必要な用達《ようたし》に外へ出かけ、一日の用が済んで、四時ごろ居間に引っ込み、編み物と小猫《こねこ》とをかかえて、窓ぎわや暖炉のそばに落ち着くとき、彼女は非常にうれしかった。時とすると何かの口実を設けて、まったく外出しないこともあった。家に引きこもっているのが、ことに冬で雪の降ってるときには、うれしかった。彼女自身もごくきれいな繊細な弱々しい小猫にすぎなくて、寒気や風や泥や雨などが嫌《きら》いだった。商人が御用聞きに来るのをうっかり忘れるようなときには、昼食を求めに外出するよりも、食べないで家にいるほうが好ましかった。そういう場合には、一片のチョコレートや戸棚《とだな》の中の果物《くだもの》などをかじった。彼女はそれをアルノーへ言うのを差し控えていた。そういうことが彼女の怠惰だった。そして、日影の薄いその日々、また時とすると日の照り渡った麗わしい日々――(ひっそりとした薄暗い部屋のまわりには、戸外には、青空が輝いており、街路の物音が響いていた。それはちょうど、彼女の魂を取り巻いてる蜃気楼《しんきろう》のようだった。)――彼女は好きな片隅《かたすみ》に座を占め、脚台に両足をのせ、編み物を手にして、指先を動かしながらも、じっと思いにふけった。そばには愛読書を一冊置いていた。たいていそれは、イギリスの小説の翻訳である赤表紙の粗末な書物だった。彼女はほんの少ししか読まなくて、日に一章がせいぜいだった。それで膝《ひざ》の上の書物は、長い間同じページが開かれてるままだったし、てんで開かれていないことさえあった。彼女は読まない先からそれを知っていた、それをぼんやり想像していた。それでディケンズやサッカレーの長い小説は、読むに数週間かかったが、彼女はそれを数年間夢想してるのだった。それらの小説はしみじみとした情愛で彼女を包み込んでいた。早急に濫読する現今の人々は、いい書物をゆっくり味わうときにそれから輝き出す霊妙な力を、もはや知り得ないのである。アルノー夫人は、それら小説中の人物の生活が自分の生活と同じく現実であることを、少しも疑わなかった。彼女が自分の一身をささげたく思うような人物もあった。母親と乙女《おとめ》との心をそなえてひそかに恋に燃えている、嫉《ねた》み深いまたやさしいキャスルウッド夫人は、彼女にとっては姉妹のように思われた。小さなドンビーは、自分のかわいい息子《むすこ》のように思われた。死にかかってる世間知らずの細君ドラーは、自分自身のように思われた。善良な純潔な眼で世をながめてゆくそれら童心の魂たちのほうへ、彼女は両手を差し出した。そして彼女の周囲には、おかしなまたいじらしい空想を追っかけてる、愛すべき貧民やおとなしい恋人の行列が、通りすぎていった――そして、自分の夢を笑いまた泣いてる善良なディケンズのやさしい天才が、その先頭に立っていた。ちょうどそういうとき、彼女が窓から外をながめると、この空想世界の親愛な人物や獰猛《どうもう》な人物が、通行人のうちに見てとられた。人家の壁の向こうに、同じような生活があるのが推察された。彼女が外出を好まないというのも、神秘に満ちてるその世界を恐れてるからだった。彼女は自分のまわりに、悲劇が隠れていたり喜劇が演ぜられていたりするのを気づいていた。そしてそれはいつも幻影ばかりではなかった。彼女は孤独な生活をしてるうちに、ある神秘な直覚の才能を得ていたので、通りすがりの人々の眼つきを見ても、その中に、往々彼ら自身も気づかないでいる過去や未来の彼らの生活の秘密を、読みとることができた。そしてそれらの真実な幻像は、彼女にあっては、架空的な追憶が加わるために変形されてしまった。彼女はそういう広漠《こうばく》たる世界のうちにおぼれる気がした。しっかりした足がかりを得るために家へもどらなければならなかった。
けれども、他人を見たりその心中を読みとったりする必要が、なんで彼女にあったろう? 彼女はただ自分自身の内部をながめるだけで十分だった。外部から見たところでは光のない蒼白《あおじろ》い彼女の存在も、内部においてはいかに光り輝いてたことだろう! なんという充実した生活だったろう! 人が夢にも知らないほどの、なんというたくさんの追憶が、宝が、あったことだろう!……そしてそれらのものは、かつて多少の現実性を有したことがあるか――もちろんある。それらは現実だったのだ。なぜなら彼女にとって現実だったから……。おう、夢想の魔法|杖《づえ》に変容させられる憐《あわ》れな生活よ!
アルノー夫人は長い歳月をさかのぼって、幼年時代までも思い起こしていた。消え失《う》せた希望のかよわい小さな花までが、一つ一つひそかに咲き返った……。ある少女にたいする幼い初恋。彼女はその娘を一目見たときからも
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