知らなかったとの弁解さえ、ジャックリーヌはなし得ないはずだった。なぜなら彼はその利己心を芸術中に誇示していたから。彼は自分のしていることをよく知っていた。芸術のうちにはめ込まれた利己心は、雲雀《ひばり》どもにたいする鏡であり、弱き者どもを妖《まど》わす炬火《きょか》である。ジャックリーヌの周囲でも、多くの婦人が彼にとらえられたのだった。ごく最近も、彼女の友の一人で結婚して間もない若い婦人が、彼のために訳なく堕落させられ、つぎには捨てられてしまった。そういう婦人らは、口惜《くや》しさを隠しおおせるほど巧みではなくて、側《はた》の人々の笑い事となりはしたけれど、はなはだしい悲嘆に沈みはしなかった。もっともひどい害をこうむった者でも、自分一身の利害と世間的な務めとを気にしていて、心の乱れを常識の範囲内だけにとどめていた。彼女らは少しも騒動をひき起こしはしなかった。夫や友人たちを欺くにしても、あるいは自分が欺かれて苦しむにしても、すべて暗黙のうちにおいてだった。彼女らは人の噂《うわさ》にたいしては女丈夫《じょじょうふ》であった。
 しかしジャックリーヌは狂人だった。彼女は自分の言ってることを実行し得るばかりではなく、自分のしてることを吹聴《ふいちょう》することもできた。彼女の無分別には、いろんな打算がなかったし、全然私心がなかった。彼女には危険な美点があって、常に自分自身にたいして率直であり、自分の行為の結果に辟易《へきえき》しなかった。彼女はその社会の他の者よりいっそうすぐれていた。それゆえにかえっていっそういけなかった。恋したとき、姦淫《かんいん》の心を起こしたとき、彼女は絶望的な率直さで無我夢中にそれへ突進した。

 アルノー夫人は一人で家にいて、ペネローペがあの名高い編み物をしてるときの落ち着きを思わせるような、逆上《のぼせ》気味の落ち着きで編み物をしていた。そして実際ペネローペのように、彼女は夫の帰りを待っていた。アルノー氏はいつも昼間を外で過ごした。午前と午後とに授業があった。少し跛を引いている上に学校はパリーの反対の端にあったけれど、たいてい昼食をしに帰ってきた。その長い道を歩くのは、好きだからというよりも、または経済だからというよりも、むしろ習慣になってたからだった。しかし日によっては、生徒に復習をしてやるために引き留められた。あるいは図書館が近所にあるのを利用して、そこへ勉強に行った。でリュシル・アルノーは、がらんとした部屋《へや》の中に一人でいた。八時から十時まで手荒い仕事をやりに来る家事女と、毎朝注文を聞いて品物をもって来る商人とを除いては、だれも訪れてくる者がなかった。その建物の中には、もうだれも知人がなかった。クリストフは移転していた。リラの植わってる庭には新しく来た人たちが住んでいた。セリーヌ・シャブランはオーギュスタン・エルスベルゼと結婚していた。ユリー・エルスベルゼは鉱山採掘の任を帯びて、家族を連れてスペインへ行っていた。老ヴェールは妻を失って、パリーの住居にはほとんど来ることがなかった。ただクリストフとその友のセシルとだけが、リュシル・アルノーとまだ交際をつづけていた。しかしその二人は遠くに住んでいて、毎日苦しい仕事に追われていたので、幾週間も彼女を訪《たず》ねて来ないことがあった。彼女は自分だけを頼りにするのほかはなかった。
 彼女は少しも退屈してはいなかった。自分の興味をそそるにはわずかなもので足りた。日々のちょっとした仕事。毎朝母親めいた入念さでか細い葉を洗ってやる小さな植木。灰色のおとなしい飼い猫《ねこ》。その猫は、かわいがられてる家畜の例にもれず、ついには彼女の様子に多少感染してきて、彼女のように一日じゅう、暖炉の隅《すみ》やテーブルの上のランプのそばなどにうずくまって、仕事をしてる彼女の指先を見守り、ときどき彼女のほうへ妙な瞳《ひとみ》をあげてながめ、それからまた無関心な眼つきになるのだった。種々の家具もまた彼女の友となった。どれも皆親しい顔つきをしていた。それをよくみがきたてたり、横のほうについてる埃《ほこり》をそっと拭《ふ》いたり、きまってる場所に注意深くすえ直したりするのが、彼女には子供らしい楽しみだった。彼女はそれらの物と無音の話を交えた。ことに自分のもってる唯一のりっぱな古い家具、ルイ十六世式の精巧な円筒卓に向かって、彼女はいつも微笑《ほほえ》みかけた。それを見ると、毎日同じような喜びを覚えた。また彼女はしきりに衣装を調べた。幾時間も椅子《いす》の上に立って、顔と両腕とを大きな田舎箪笥《いなかだんす》の中につっ込んで、ながめたり片付けたりした。すると猫は訝《いぶか》しそうに、幾時間も彼女の様子をながめていた。
 けれども、すべての仕事を終え、一人で昼食をともかくも済まし――(彼女
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