ことはもう駄目になってしまうのだ。)
 ジャックリーヌはふたたびオリヴィエを自分のものにしようとは寸時も思わなかった。もうおそすぎた。彼女はもう彼を十分愛していなかった。もしくは、あまりに愛してたのかもしれない……。彼女が感じたのは嫉妬《しっと》ではなかった。信頼の念がことごとく崩壊し、彼女の内心に残っている彼への信念と希望とがことごとく、崩壊したのだった。彼女自身こそ彼を馬鹿にしたのだということ、彼女が彼を落胆さしてそういう愛にはしらしたこと、そしてその愛は純潔なものであること、要するに愛しもしくは愛しないのは人間の自由になるものではないこと、などを彼女は考えてみなかった。その感傷的な誘引を、クリストフと自分との艶事《つやごと》に比較することなどは、彼女の頭に浮かびもしなかった。クリストフといえば、彼女は少しも愛してるのではなかったし、物の数ともしていなかったのである。彼女はその情熱的な誇張のために、オリヴィエから欺かれたと考え、自分はもうオリヴィエにとってはなきに等しいのだと考えた。最後の支持が、ちょうどそれをつかもうと手を差し出したときに、なくなってしまったのである……。万事終わった。
 オリヴィエは、その日彼女がいかに苦しんだかを、まったく知らなかった。しかし彼女と顔を合わしたとき、彼もまた万事終わったという気がした。
 それ以来二人は、他人の前にいるときしかたがいに口をきかなかった。あたかも狩りたてられて用心し恐れている二匹の獣のように、彼らはたがいに観察し合った。ジェレミアス・ゴットヘルフは、もう愛し合わなくてたがいに監視し合ってる夫婦の痛ましい状態を、無慈悲な質朴《しつぼく》さで描いている。その二人はおのおの相手の健康をうかがい、病気の徴候を待ち受けており、しかも相手の死を早めようと考えてるのではなく、また相手の死をねがってるのでもないが、ただ不慮の事変を待ち望むようになり、そしてたがいに自分のほうが頑丈《がんじょう》だと喜んでるのである。ジャックリーヌとオリヴィエとはときどき、それに似た考えを相手がいだいてるように想像することがあった。がどちらも実際そういう考えをいだいてはしなかった。とは言え、相手にそういう考えがあるように思うだけでも、よくよくのことである。たとえばジャックリーヌは、夜中に幻覚的な不眠に襲われるとき、相手のほうが自分より強くて、自分をしだいに磨《す》りへらしてゆき、やがて自分を打ち負かしてしまうだろうと思った……。狂いたった想像と心との奇怪な幻覚である。――しかも、彼らは心の底ではもっともよき部分で愛し合ってたことを、考えてみれば……。
 オリヴィエはその重荷に堪えかねて、もう戦おうともせず、わきに身を避けて、ジャックリーヌの魂を勝手な方向に進ましておいた。彼女は一人放任され、嚮導《きょうどう》者がなくなって、自分の自由さに眩惑《げんわく》した。彼女には反抗してぶつかってゆくべき主人が必要だった。それがない場合には造り出さなければならなかった。そして、彼女は自分の固定観念の捕虜《とりこ》となった。これまで彼女は、いかに苦しんだとは言え、オリヴィエと別れることをかつて頭に浮かべはしなかった。がこのときから彼女は、あらゆる絆《きずな》から脱したと思った。彼女は恋したかった。あまり遅れないうちに恋したかった。――(まだ若かったけれども、もう年老いてると自分では思っていたのである。)――彼女は恋した。空想的な痛烈な情熱を知った。その情熱こそ、なんでも出合い頭《がしら》のものに、ちょっと見た顔に、ある名声に、時とすると単なる名前に、すぐ執着し、それをつかみ取ったあとには、もう手をゆるめようともせず、一度選んだその対象物なしにはもう済ませないことを、人の心に信じさせ、心全体を食い荒らし、他の愛情や、道徳観念や、追憶や、自負の念や、他人にたいする敬意など、すべて心を満たしてる過去の事柄を、全然空に帰せしめてしまう。そして固定観念がもはや身を養うべきものをもたずに、すべてを焼きつくしてみずからも死んでゆくときに、なんたる新しい自然がその廃墟《はいきょ》から飛び出してくることぞ! 好意も慈悲も若さも幻ももたない自然であって、あたかもこわれた建築を蚕食する雑草のように、生命を蚕食することしか考えないのである。
 ジャックリーヌの場合も例によって、心を欺くにもっとも適した男へ、その固定観念はからみついていった。憐《あわ》れなジャックリーヌが惚《ほ》れ込んだ男は、ある運のよいパリーの著述家で、美しくも若くもなく、鈍重で、赭《あか》ら顔で、擦《す》れっからしで、歯は欠け、心はひどく乾《かわ》ききっていて、そのおもな値打ちと言っては、世にもてはやされてることと、多数の女を不幸な目に会わしたこととであった。この男の利己心を
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