たいものとなった。そしてある偶然の事柄がその情況を急進さした。
 一年ほど前から、セシル・フルーリーがしばしばジャンナン家を訪れてきた。オリヴィエはクリストフのところで彼女に会い、それからジャックリーヌが彼女を招待した。そしてセシルは、クリストフが彼らと別れてから後も、なお引きつづいて彼らに会っていた。ジャックリーヌはセシルに親切だった。彼女自身は音楽家でもなければ、またセシルをやや平凡な女だと思ったけれど、セシルの歌と和《なご》やかな感化とに心ひかれたのだった。オリヴィエは彼女といっしょに音楽をひくのを楽しみとした。しだいに彼女は家庭の友となっていった。彼女は信頼の念を起こさした。彼女が打ち解けた眼と、健康な様子と、聞くも愉快なやや太い善良な笑い声とで、ジャンナン家の客間にはいってくると、あたかも霧のなかに一条の日の光がさし込んだようなものだった。オリヴィエとジャックリーヌとはある慰安を心に感じた。彼女が帰ってゆくときには、彼らはこう言いたかった。
「いてください、もっといてください。寂しいから。」
 ジャックリーヌの不在中に、オリヴィエはいっそうしばしばセシルに会った。そして彼は自分の悩みを幾分か彼女に隠し得なかった。弱いやさしい魂が、息苦しさを覚えて、胸の中を打ち明けたくなり、身を投げ出してゆくような、無分別な放心さで、彼は悩みをもらした。セシルは心を動かされた。母親めいたやさしい言葉をかけてくれた。彼女は彼ら二人を気の毒に思った。気を落としてはいけないとオリヴィエに勧めた。けれども彼女は、そういう打ち明け話に彼よりもいっそう気兼ねしだしたのか、あるいはまた何か他の理由でか、いろんな口実を設けて前ほどは来なくなった。おそらく彼女は、ジャックリーヌにたいして誠実な振る舞いではないと思い、それらの秘密を知る権利は自分にないと思ったのだろう。少なくともオリヴィエは、彼女の遠のいた理由をそういうふうに解釈した。そして彼は彼女の行為を是認した。なぜなら、打ち明けたことをみずからとがめていたから。しかし彼女が遠のいたことによって彼は、自分にとってセシルはどういう者であったかを感じた。彼は自分の考えを彼女に分かつ習慣がついていた。彼女一人が圧倒してくる苦しみから彼を解放してくれるのだった。彼は自分の感情を読み取ることに通じていたので、今この感情にいかなる名前を与うべきかを迷わなかった。彼はその感情についてセシルへはなんとも言わなかった。しかし、自分が感じてることを自分のために書きたいという要求には逆らい得なかった。彼は少し以前から、紙の上で自分の考えと話を交えるという危険な習慣に、ふたたび立ちもどっていた。恋愛の間はそれから脱していたが、今や孤独の自分を見出すと、その遺伝的な習癖にふたたびとらわれたのだった。それは苦しいおりの慰安であり、また自己解剖をする芸術家としてやむにやまれぬことだった。かくて彼は、あたかもセシルに語るようにして、しかもセシルに読まれることがないからいっそう自由に、自分自身を描写し、自分の苦しみを書きしるした。
 ところが偶然にも、その文章がジャックリーヌの眼に触れることとなった。その日ちょうど彼女は、幾年来になくもっともオリヴィエに近づいてる気がしていた。戸棚《とだな》を片付けながら、彼からもらった古い恋の手紙を読み返した。涙が出るほど心打たれた。戸棚の影にすわって、片付け物を終えることができずに、過去のことを思い浮かべた。その過去を破壊したのが痛切に悔いられた。オリヴィエの苦しみのことも考えた。かつて彼女はそういう考えを平気で見守ることはできなかったのである。彼女は彼を忘れることはできた。しかし自分のせいで彼が苦しんでるという考えを堪えることはできなかった。彼女は胸さける思いをした。彼の腕の中に身を投げ出して言いたかった。
「ああ、オリヴィエ、オリヴィエ、私たちはなんということをしたのでしょう。私たちは狂人だわ、狂人だわ。もう苦しめ合うことはやめましょうね!」
 もしそのとき、彼が帰って来たら……。
 ちょうどそのとき、彼女は手紙の文章を見出した……万事終わった。――彼女はオリヴィエから実際欺かれたと思ったろうか? おそらく思ったろう。しかしそれだけならば構わない。裏切りは彼女にとっては、行為においてなら意志におけるほど重大ではなかった。ひそかに心を他の女に与えることよりも情婦をもつことのほうを、彼女はいっそう容易に愛する男に許し得たろう。それは道理《もっとも》なことであった。
「おかしなことだ!」とある人々は言うだろう――(けれどそれこそ、愛の裏切りが完成されたときにしかそれを苦しまない憐《あわ》れな者どもである……。心が忠実である間は、肉体の汚れなどは大したことではない。一度心が裏切った場合には、その他の
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