ことばかり考えさせるようになった。実際、神経衰弱にたいする近代の療法くらいおかしなものはない。それは自我の一つの病気に代うるに、自我の他の病気たる自我肥大症をもってするのである。なぜその利己心へ出血療法を行なわないのであろうか? もしくは、多すぎる血をもっていない場合には、精神的な剛健な反対療法によって、なぜその血液を頭から心へもどらせることをしないのであろうか?
 ジャックリーヌは右の容態から脱した。肉体的には、前より強壮になり肥満し若返っていた――が精神的には、前よりいっそう病気になっていた。数か月の孤独な生活は、彼女をオリヴィエに結びつける思念のつながりを、最後のものまで断ち切ってしまった。オリヴィエのそばにとどまってる間は、いろんな弱点を有しながらも信念のうちに確固としてとどまってるその理想主義的な性格の威力を、彼女はなおこうむっていた。自分よりもしっかりしてる精神から隷属させられることに反抗し、自分を洞見《どうけん》して時とすると不本意ながらも自責の念を起こさせられるその眼つきに反抗して、彼女はいくら身をもがいても駄目《だめ》だった。けれども、偶然にもその男から離れると――その洞察《どうさつ》的な愛が自分の上にのしかかってくるのをもう感じなくなると――自分の身が自由になると――ただちに、二人の間になお存していた親しい信頼に引きつづいて、彼女のうちに起こってきたものは、自分自身を相手の手中に委《ゆだ》ねたという怨恨《えんこん》の情であり、もう実際に感じていない愛情の軛《くびき》を長らく負っていたという憎悪《ぞうお》の情であった……。相手に愛せられまた相手を愛してるらしい女の心の中に生ずる、一徹な怨恨を、だれが説明し得よう! 今日《きょう》と明日《あす》との間にすべては一変する。前日まで彼女は、愛していたし、愛してるようだったし、自分でも愛してると思っていた。しかし今日はもう愛していない。彼女が愛した男は彼女の考えの中では抹殺《まっさつ》される。男は自分が彼女にとってはもう無に等しいことを突然気づく。そして訳がわからなくなる。彼女のうちで行なわれていた長い間の働きを少しも見てとらなかったのである。自分にたいして積ってきた彼女のひそかな敵意を夢にも知らなかったのである。彼はそういう返報や憎悪の理由を感じようとはしない。その理由はたいてい遠い数多くのおぼろなものであって――あるいは、寝所の帷《とばり》の下に隠れたもの――あるいは、傷つけられた自尊心、気づかれ批判された心の秘密――あるいは……彼女自身にさえよくわからない、いろんなものである。知らず知らずなされたものでしかも彼女がけっして許し得ないほどの、ある隠れた侮辱が世にはある。男にはそれがどうしてもわからないし、女自身にもよくわかってはいない。しかしその侮辱は彼女の肉体の中に刻みつけられる。彼女の肉体はけっしてそれを忘れない。
 愛情を流し去るこの恐るべき力にたいして戦うことは、オリヴィエとはまったく異なった性質の男でなければできないのだった――もっと自然に近く、もっと単純であるとともに撓《たわ》みやすく、感傷的な懸念に煩わされず、本能に富み、必要に応じては理性が認めない行動をもなし得るような男でなければ、できないのだった。ところがオリヴィエは前もって打ち負け落胆していた。彼はあまりに明敏だったので、ジャックリーヌのうちに、その意志よりも強い遺伝性があるのを、母親の魂がふたたび現われてきてるのを、長い前から認めていた。彼女がその種族の奥底に石のようにころがり落ちるのを、彼は見てとっていた。そして弱くかつ拙劣だったので、いくら骨折ってもますます彼女の墜落を早めるばかりだった。彼は静平にしていようとつとめた。しかし彼女は無意識的な考慮をめぐらして、彼を軽蔑《けいべつ》すべき理由を得んがために、その静平から脱せさせんとし、乱暴な激しい卑しいことを言わせようとした。もし彼が怒れば、彼女は彼を軽蔑した。もし彼がそのあとできまり悪がって恥ずかしい様子をすれば、彼女はいっそう彼を軽蔑した。また彼がもし怒らなければ、怒ろうとしなければ――こんどは、彼女は彼を憎んだ。そしてもっともいけないのは、顔をつき合わせながら幾日も黙り込んでることだった。人を窒息させ狂乱させるような沈黙で、それに浸っているともっともやさしい者でさえも、ついには狂暴になってきて、害したり怒鳴ったり怒鳴らしたりしたい欲求をときどき覚えるものである。そういう沈黙では、まっ暗な沈黙では、愛もまったく分散してしまい、人はあたかも天体のように、各自に自分の軌道に従って、暗黒の中に没してゆく。……ジャックリーヌとオリヴィエとは、たがいに接近するためになす事柄までがすべて疎隔の原因となるまでに、立ち至ってしまった。彼らの生活は堪えが
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