!」
 しかし二人は、それを失いかけてることをよく知っていた……。
 ジャックリーヌはパリーへもどると、愛に醸《かも》し出された小さな新たな生命が、自分の身内に躍動するのを感じた。しかし愛はもう過ぎ去っていた。彼女のうちに重みを加えてくる重荷は、彼女をオリヴィエへ結びつけはしなかった。彼女はその重荷について、期待していた喜びを少しも感じなかった。彼女は不安げに自分の心にたずねてみた。以前苦しんでいたころ彼女は、子供ができたら自分は幸福になるだろうかと、しばしば考えたことがあった。そして今や子供はできた。しかし幸福はやって来なかった。自分の肉の中に根をおろしてるその人間植物が、領分の血を吸って成長してゆくのを感じて、彼女は恐怖の念を覚えた。その未知の存在から一身を所有され吸い取られ、ぼんやりした眼つきで、耳を澄まし思いに沈みながら、幾日もじっとしていた。漠然《ばくぜん》とした甘い眠ったい気がかりな響きだった。そしてはまたはっとして、そのぼんやりした状態から我に返った――汗にぬれ、身体がおののき、反抗の気がむらむらと起こった。自分をとらえてる自然の網に逆らって身をもがいた。生きたかった、自由になりたかった。自然に欺かれたような気がした。そしてまたつぎには、そういう考えをみずから恥じ、自分を奇体な女だと考え、自分は一般の女よりも悪い者であるかあるいは別種の者であるかしらと、みずから怪しんでみた。そしてしだいに、ふたたび心が鎮《しず》まってきて、胎内に熟してる生きた果実の養液と夢とのうちに、樹木のように官能が鈍ってきた。その果実は、どういうものになるのかしら?……
 初めて明るみに出たその呱々《ここ》の声を聞いたとき、人の心を撃つ可憐《かれん》なるその小さい身体を見たとき、彼女の心はすっかり和らいだ。一瞬の眩暈《めまい》のうちに彼女は、世にもっとも力強い喜びたる光栄ある母性の喜びを知った。自分の苦しみをもって、自分の肉より成る一つの存在を、一つの人間を、創り出したのである。そして、世界を撼《ゆる》がす愛の大波は、頭から足先まで彼女を抱きしめ、彼女を巻き込み、彼女を天までもち上げた……。おう神よ、児《こ》を産む女は汝にも匹敵する。しかも汝は彼女の喜びに似た喜びを知らない。なぜなら、汝は苦しまなかったのだから……。
 やがてその大波は鎮まった。魂はまたどん底に触れた。
 オリヴィエは感動のあまり震えながら、子供をのぞき込んでいた。そしてジャックリーヌに微笑《ほほえ》みかけながら、自分たち二人とまだほとんど人間とも言えないその憐《あわ》れな存在との間に、生命のいかなる神秘なつながりがあるかを、理解しようと努めていた。その皺《しわ》寄った黄色い小さな顔に、彼はやや無気味そうにしかもやさしく、そっと唇《くちびる》をあてた。ジャックリーヌは彼をながめていたが、妬《ねた》ましげに彼を押しのけた。そして子供を取り、胸に抱きしめ、やたらに接吻《せっぷん》した。子供は泣きたてた。彼女は子供を渡した。そして壁のほうへ顔を向けて泣いた。オリヴィエは彼女を抱擁し、彼女の涙を吸ってやった。彼女も彼を抱擁して、強《し》いて微笑《ほほえ》んだ。それから、子供をそばにして休みたいと求めた……。ああ、愛が滅びてはもはや致し方もない。男のほうは、自己の半ば以上を理知に委《ゆだ》ねるので、強い感情を失っても、その痕跡《こんせき》を、その観念を、かならず頭脳のうちに保存する。彼はもう愛さないでもいられる。過去に愛したことを忘れずにいる。しかしながら、理由なしに全身をあげて一度愛したことがあり、そして理由なしに全身をあげて愛することをやめた女のほうは、なんとなし得るであろうか? 意欲するか? 幻を描くか! しかも、意欲するにはあまりに弱く、幻を描くにはあまりに真摯《しんし》である場合には……。
 ジャックリーヌは寝床に肱《ひじ》をついて、やさしい憐《あわ》れみの念で子供をながめた。子供は何者であるか? たとい何者であろうとも、それは全部彼女ではなかった。それはまた「他」でもあった。そしてその「他」を、彼女はもう愛していなかったのである。憐れなる小さなものよ! いとしき小さなものよ! 死に失《う》せた過去に彼女を結びつけようとしてるその存在にたいして、彼女はいらだちの念を覚えた。そしてそのほうへかがみ込みながら、それを抱擁しまた抱擁した……。

 現代の婦人の大なる不幸は、彼女らがあまりに自由であるとともにまた十分自由でないということである。もっと自由であったら、彼女らはいろんな束縛を求めて、そこに一種の愉悦と安寧《あんねい》とを見出すだろう。またさほど自由でなかったら、彼女らはいろんな束縛に忍従して、それを破り捨て得ないだろう。そして苦しむことも少なくなるだろう。しかしもっとも
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