かに、お前がいることを、皆は僕に信じさせたがるだろう。しかし僕はそうでないことを知っている。さあ出かけよう、ミンナよ。こんな人たちになんの用があろうぞ。」
彼は明日また来ると約束して、辞し去った。その夜出発するのだと言ったら、汽車の時間まで放されなかったろう。夜のなかに踏み込むとすぐに彼は、馬車に出会う前の安らかな気持を取り返した。その晩の煩わしい会合の記憶は、海綿ででも拭《ぬぐ》い去られるように消えていった。もう何にも残らなかった。ライン河の声がすべてを浸した。彼はその岸の上を、自分が生まれた家のほうへ歩いていった。その家は訳なく見出せた。雨戸が閉まってすっかり眠っていた。クリストフは路のまん中に立ち止まった。もし戸をたたいたら、見覚えのある人の影が戸を開いてくれそうな気がした。家のまわりの河に近い牧場の中、昔夕方ゴットフリートと話しにやって来た場所へ、彼ははいり込んだ。そこに腰をおろした。過ぎ去った日々がよみがえってきた。いっしょに初恋の夢を味わったなつかしい少女が、生き返っていた。幼い愛情ややさしい涙や無限の希望などのうちに、二人はまたいっしょに生きた。そして彼は温和な微笑《ほほえ》みを浮かべてみずから言った。
「人生は僕に何事も教えてはくれなかった。いくら知ったとて……いくら知ったとて、甲斐《かい》はない……。僕はいつまでも同じような幻ばかりをいだいている。」
限りなく愛しそして信ずることは、なんといいことだろう! 愛に接するすべてのものは死から免れる。
「ミンナよ、僕といっしょにいる――僕といっしょで他の者[#「他の者」に傍点]といっしょでない――ミンナよ、お前はけっして年老いることがないのだ!……」
おぼろな月が雲間から出て、河の面に銀の鱗《うろこ》を輝かした。クリストフは、今自分がすわってる場所のかく近くを、昔河が流れてはしなかったような気がした。彼は河のほうへ行ってみた。そうだ、あのころそこには、この梨《なし》の木の向こうに、細長い砂地と小さな芝生《しばふ》の斜面とがあった。そこで彼は幾度も遊んだものだった。それを河は蚕食してしまっていた。進んで来て梨の根を洗っていた。クリストフは切ない心地がした。彼は停車場のほうへ引き返した。その方面には新しい一郭が――貧弱な住宅、建築中の工作場、製造工場の大煙突など――でき上がりかけていた。クリストフはその日の午後に見たアカシアの木立に思いをはせた。そして考えた。
「彼処《あそこ》にもまた、河が蚕食している……。」
古い町は、生者も死者もすべてを包み込んで、暗闇《くらやみ》のなかに眠っていたが、それのほうが彼にはまだなつかしかった。なぜなら、この町も脅かされてるような気がしたから……。
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囲壁は敵の手中にあり……。
[#ここで字下げ終わり]
いざ同胞を救い出さんかな! われわれが愛するものはすべて死にねらわれている。過ぎ去る面影を永遠の青銅の上に、急いで刻みつけようではないか。火災がプリアムの宮殿をのみ尽くさないうちに、祖国の宝を炎から取り出そうではないか……。
クリストフは洪水《こうずい》を逃げる者のように、汽車に乗って立ち去った。けれども、自分の町の難破から鎮守の神々を救い出す人々と同様に、彼は、故郷の土地からかつてほとばしり出た愛の火花と、過去の神聖な魂とを、自分のうちに担《にな》い去っていった。
ジャックリーヌとオリヴィエとは、しばらくの間親しくしていた。ジャックリーヌは父を亡くしたのだった。その死亡から深く心を動かされた。ほんとうの不幸に面すると、他の悲しみはすべてつまらない馬鹿げたものに感ぜられた。そして、オリヴィエが示してくれるやさしい情愛は、オリヴィエにたいする彼女の愛情をふたたび勢いづけた。数年以前、叔母《おば》マルトの死と楽しい恋愛との間に介在したあの悲しい日々へ、彼女はふたたび連れもどされた気がした。自分は人生にたいして忘恩者であると、彼女は考えた。与えられたわずかなものを奪われないでいることを、人生に感謝すべきであると考えた。そのわずかなものの価が今やわかったので、彼女はそれを妬《ねた》ましげに胸に抱きしめた。喪の悲しみを紛らすために医者から命ぜられて、一時パリーを離れ、オリヴィエとともに旅をし、新婚のころたがいに愛し合った場所へ、一種の巡礼を試みると、彼女はしみじみとした気持になった。消え失《う》せてると思っていたなつかしい愛の面影を、道の曲がり角《かど》などにふたたび見出して、それが過ぎ去るのを眺め、それがまた消え失せる――いつまで? おそらく永遠に?――消え失せるだろうということを知って、二人は憂愁に沈みながら、絶望的な情熱でそれをかき抱いた……。
「残っていてほしい、私たちといっしょに残っていてほしい
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