じこもることがあるのを知っていたので、強《し》いて呼ぼうとはしないで、ジャックリーヌと歩きつづけた。そしてクリストフはやはり機械的に、十歩ばかりあとから犬のように二人について行った。二人が立ち止まると彼も立ち止まった。二人が歩き出すと彼も歩き出した。そうして彼らは庭を一回りして、また家に入った。クリストフは自分の室に上がっていって、閉じこもった。燈火もつけなかった。寝もしなかった、考えてもいなかった。夜中ごろになって、腕と頭とをテーブルにもたせてすわったまま、うとうとした。一時間もたつと眼が覚《さ》めた。彼は蝋燭《ろうそく》に火をつけ、書類や品物をあわただしくかき集め、かばんの支度をし、それから寝台の上に身を投げ出し、夜明けまで眠った。夜が明けると、荷物をもって降りてゆき、立ち去ってしまった。人々はその朝じゅう彼を待った。一日じゅう彼を捜し回った。ジャックリーヌは、冷淡の下に憤怒《ふんぬ》のおののきを隠しながら、馬鹿にした皮肉さで、なくなった器物はないかと調べるようなふうをした。ようやく翌日の晩になって、オリヴィエはクリストフの手紙を受け取った。

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 親しき友よ、僕が狂人のように立ち去ったのを恨まないでくれたまえ。僕はまったく狂人だ。それは君も知ってることだ。しかししかたがない。僕は僕以外のものになり得ないのだ。君の親切な待遇を感謝する。ほんとうにうれしかった。しかし君、僕は他人といっしょの生活に適してる人間ではない。生活にさえ適してる人間かどうか、怪しいくらいだ。片隅《かたすみ》に引きこもっていて、人々を愛する――遠くから愛するのが、僕には適当なのだ。そのほうが用心深いやり方だ。人々をあまり近くで見ると、僕は人間|嫌《ぎら》いになる。しかも僕は人間嫌いにはなりたくないのだ。僕は人間を愛したい、君たちをみんな愛したい。ああ僕はどんなにか、君たちみんなに善をなしたいことだろう! 君たちを――君を、幸福ならしめることが僕にできるなら! おう僕はどんなにか喜んで、僕のもち得るすべての幸福をもその代わりに投げ出すだろう!……しかしそれは僕の力に及ばない。人はただ他人に道を示すことができるばかりだ。他人に代わってその道を歩いてやることはできないのだ。人は各自にみずから自分を救うべきである。君自身を救いたまえ。君たち自身を救いたまえ! 僕は深く君を愛している。
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[#地から2字上げ]クリストフ
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ジャンナン夫人へよろしく。
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「ジャンナン夫人」は、唇《くちびる》をきっと結び、軽侮の微笑を浮かべながら、その手紙を読んだ。そして冷やかに言った。
「ではあの人の忠告にお従いなさいな。あなた自身をお救いなさい。」
 しかし、オリヴィエが手を差し出して手紙を取りもどそうとすると、ジャックリーヌはいきなりそれをもみつぶして、下に投げ捨てた。そして大粒の涙が両の眼からほとばしった。オリヴィエは彼女の手をとった。
「どうしたんだい?」と彼はびっくりして尋ねた。
「構わないでください!」と彼女は憤然として叫んだ。
 彼女はそこを出て行った。扉《とびら》の敷居の上で彼女は叫んだ。
「得手勝手な人たちだわ!」

 クリストフはついに、グラン[#「グラン」に傍点]・ジュールナル[#「ジュールナル」に傍点]新聞の保護者たちを、敵となしてしまった。それは前から容易にわかってることだった。クリストフは、ゲーテが称揚した「無感謝[#「無感謝」に傍点]」という徳を、天から授かっていた。ゲーテは皮肉にこう書いている。

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 感謝の様子を示すのをきらう者は、きわめてまれである。ただ、もっとも憐《あわ》れな階級から出て来て、恩恵者の下劣さにたいていいつも毒されてる助力を、一歩ごとに受けなければならなかったような、著名な人々のみが、この嫌悪《けんお》の情を表わすものである。
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 クリストフは、世話をされたのにたいして、こちらで身を卑《ひく》くしたりまた自由を捨てたり――その二つは彼にとっては同一事だった――しなければならないとは、考えていなかった。彼は恩恵をそんな高利で貸しつけはしないで、ただで与えていた。ところが彼に恩をきせた者たちのほうでは、少し違った意見をもっていた。債務者にはそれだけの義務があるという至って高い道徳観念をもっていた。それで、この新聞の主催になるある広告的祝賀のために、ばかばかしい祝賀音楽を書くことを、クリストフが断わると、彼らは気持を悪くした。彼にその行為の無作法さを思い知らしてやった。彼はそれを撃退した。それからしばらくたって、彼の主張だとその新聞が書きたててる事柄について、彼は猛烈に誤りを指摘したので、ついに彼ら
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