鍵《かぎ》を一つ渡して、いつでも好きなときにはいれるようにしてやった。実際彼女は一度ならず、クリストフがいないときにやって来た。そしてテーブルの上に、菫《すみれ》の小さな花束を置いたり、または紙にちょっと、走り書きや素描や漫画を、書き残していった――立ち寄ったしるしに。
 そしてある晩、彼女は芝居の帰りに、また楽しい話を繰り返すつもりで、クリストフのところにやって来た。彼は仕事をしていた。二人は話を始めた。しかし二、三言話し出すや否や、二人はどちらも、この前のようなやさしい気持でいないことを感じた。彼女は帰ろうとした。けれどもうおそかった。クリストフが引き留めたわけではなかった。彼女自身の意志が帰ることを許さなかった。二人はそのままじっとしていて、欲望が高まってくるのを感じた。
 そしてたがいに身を任せた。

 その夜以来、彼女は幾週間も姿を見せなかった。彼はその夜のために、数か月眠っていた情欲がふたたび燃え出して、彼女と会わずにはいられなかった。彼女の家へ行くことは断わられていたので、芝居へ行った。後ろのほうの席に身を隠した。愛情と感動とに燃えたっていた。骨の髄《ずい》までもおののいていた。彼女が自分の役に打ち込んでる悲壮な熱意は、彼女といっしょに彼を焼きつくした。彼はついに彼女へ書き送った。
 ――あなたは私を恨んでるのですか? お気にさわったのなら許してください。
 その謙遜《けんそん》な言葉に接して、彼女は彼の家へ駆けつけて来、彼の腕に身を投げ出した。
「ただ親しい友だちのままでいたほうがよかったでしょうけれど。でもそれもできなかったからには、しかたないことに反抗しても無駄ですわ。もうどうなっても構わないことよ!」
 二人は生活をいっしょにした。それでも各自に自分の部屋《へや》と自由とを取って置いた。クリストフとの几帳面《きちょうめん》な同棲《どうせい》に馴《な》れることは、フランソアーズにはできなかったろう。そのうえ、彼女の境遇もそれに適しなかった。彼女はクリストフのところにやって来て、昼と夜の一部を彼といっしょに過ごしたが、しかし毎日自分の家へももどってゆき、そこで泊まってくることもあった。
 芝居のない幾月かの休暇中には、ジフ寄りのパリー郊外に、二人はいっしょに一軒の家を借りた。多少|愁《うれ》いの曇りがないでもなかったが、とにかく幸福な日々を、彼らはそこで過ごした。信頼と勉励との日々。二人の室はきれいで明るくて晴れ晴れとしていて、畑地を見晴らす広い自由な眼界が開けていた。夜は寝台の上から窓越しに、雲の怪しい影が、どんよりした薄明るい空を過ぎるのが見えた。たがいに抱き合ったままうとうととしながら、喜びに酔った蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声や、驟雨《しゅうう》の降りそそぐ音などが聞かれた。秋の大地の息――忍冬《にんどう》や仙人草《せんにんそう》や藤や刈り草の匂《にお》い――が、家の中にまた二人の身体に沁《し》み込んできた。夜の静けさ。添い寝の眠り。沈黙。遠い犬の吠《ほ》え声。鶏の歌。曙《あけぼの》の光が見えそめる。冷え冷えとした灰色の暁のうちに、遠い鐘楼で御告《アンジェリユス》の鐘が細い音をたてる。寝床の温《ぬく》みの中にある二人の身体は、その暁の冷気に震えて、なお恋しげにひしと寄り添う。外壁に取りついてる葡萄棚《ぶどうだな》の中には、小鳥のさえずりが起こってくる。クリストフは眼を開いて、息を凝らし、しみじみとした心で、自分のそばにうちながめる、眠ってる女の疲れたなつかしい顔を、恋のためのその蒼白《あおじろ》い色を……。

 彼らの愛は利己的な情熱ではなかった。肉体までも加わりたがる深い友情であった。彼らはたがいに邪魔をしなかった。各自に勉強していた。クリストフの天才や温情や精神力などは、フランソアーズには貴重なものだった。また彼女は、ある事柄には自分のほうが年上だという気がして、母親めいた喜びを覚えるのだった。彼女は彼のひくものを少しも理解できないのが残念だった。彼女には音楽はわからなかった。ただまれには、ある荒々しい情緒にとらえられることもあったが、その情緒でさえ、音楽から来たものというよりもむしろ、彼女自身から来たものであり、彼女やその周囲のもの、景色や人々や色彩や音響など、すべてをそのとき浸している情熱から来たものであった。それでも彼女はなお自分にわからないその神秘な言葉を通して、クリストフの天才を感じた。それはあたかも、りっぱな俳優が外国語で演じてるのを見るがようなものだった。彼女自身の天才もそれから力づけられた。またクリストフは作曲するときには、彼女のうちに、その恋しい形体の下に、自分の思想を投げ込み自分の情熱を具象化した。そして彼の眼には、それらの思想や情熱が、自分のうちにあったときよりもさらに美《うる》わ
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