4−6]《こめかみ》を両手にはさんで、やさしく抱きかかえて、そして言った。
「かわいそうに!」
 彼女は彼を押しのけそうにした。彼は言った。
「僕を恐《こわ》がってはいけません。僕はあなたをよく愛しています。」
 すると、フランソアーズの蒼《あお》ざめた頬《ほお》に涙が流れた。彼は彼女のそばにひざまずいて、二滴の涙が落ちかかってる、

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いとも美わしき長き手[#「いとも美わしき長き手」に傍点]……
[#ここで字下げ終わり]

の上に唇《くちびる》をつけた。
 それから彼は席についた。彼女は心を取り直していた。そして、また静かに話をつづけた。
 ついにある作家が彼女を世に出してくれた。彼はこの一風変わった人物たる彼女のうちに、一つの悪魔を、一つの天才を――そして彼のためにさらにいいことには、「一つの劇的人物、一時代を代表する新しい女」を、見出したのだった。もとより彼は、他の多くの女と関係したあとであって、彼女にも手をつけた。そして彼女も、他の多くの男に身を任せたと同様に、愛もなく、愛と反対の感情をさえもちながら、彼に身を任せた。しかし彼は彼女を有名にしてくれた。彼女も彼を有名にしてやった。
「そしてもう今では、」とクリストフは言った、「だれもあなたにたいしてなんともすることはできません。あなたのほうで他人を勝手に取り扱えるのです。」
「あなたはそう思っていらして?」と彼女は悲しげに言った。
 そこで彼女は、運命のも一つの悪戯《いたずら》を語ってきかした――自分が軽蔑《けいべつ》してるくだらない男に迷い込んだ話を。それはある文学者で、彼女を利用し、彼女のもっとも著しい秘密を奪い取り、それを小説に書き、それから彼女を捨ててしまった。
「私はその男を、」と彼女は言った、「靴《くつ》の泥《どろ》のように軽蔑《けいべつ》しています。そして、そのひどい奴に自分が惚《ほ》れてることだの、ちょっと手招きさえさるれば、すぐ駆けつけて行って自分を辱《はずか》しめるだろうなどということは、考えるだけでもぞっとします。けれど、どうにもしかたがないんです。私の心は、私の精神が望んでるものを少しも好みません。そして心と精神とを、どちらか代わる代わる犠牲にし辱しめるようになるのです。私には心があり、身体があります。その二つが喚《わめ》きたてて、自分だけの幸福を求めています。私にはそれを制するだけの手綱がないんです。私は何にも信じません。私は自由です……自由? いえ、心と身体との奴隷です。それがたびたび、たいていいつも、私の厭《いや》がってることを望むんです。私を連れ去るんです。そして私は恥ずかしい思いをします。けれど、どうにもしかたがないのです……。」
 彼女は口をつぐんで、暖炉の灰を火箸《ひばし》で何気なくかき回した。
「私は読んだことがあります、」と彼女は言った、「役者というものは何にも感じないものだということを。そして実際、私が見かけるたいていの役者は皆、自負心のつまらない問題にばかり気をもんでる見栄坊なのです。そしてその人たちと私と、どちらがほんとうの役者でないか、私にはわかりません。けれど自分では、私のほうがそうなのだと思っています。ともかく私は、他の人たちに代わって罰を受けています。」
 彼女は話をやめた。夜中の三時だった。彼女は立ち上がって帰ろうとした。クリストフは、朝になって帰るほうがよいと言い、自分の寝台に横になったらと勧めた。彼女は、火の消えた暖炉のそばの肱掛椅子《ひじかけいす》にすわって、ひっそりした中で静かに話しつづけるほうを望んだ。
「明日《あした》になって疲れますよ。」
「私|馴《な》れていますの。でもあなたこそ……。明日のお仕事は?」
「明日は隙《ひま》です。十一時ごろちょっと稽古《けいこ》をしてやるだけで……。それに僕は丈夫です。」
「だからなおさらよく眠らなければいけないんでしょう。」
「そうです。僕はぐっすり眠りますよ。どんな苦しいことがあっても、眠られないということはありません。あまりよく眠るんで、時には癪《しゃく》にさわることさえあります。それだけ時間が無駄になりますからね……。一度睡眠に仕返しをして徹夜してやるのが、うれしくてたまらないんです。」
 二人は小声で話をつづけながら、ときどき長く黙り込んだ。そのうちにクリストフは眠った。フランソアーズは微笑《ほほえ》んで、彼が落ちないようにその頭をささえてやった……。窓ぎわにすわって薄暗い庭をながめながら、ぼんやり夢想にふけった。庭はやがて明るくなった。七時ごろに、彼女は静かにクリストフを起こして、別れの挨拶《あいさつ》を言った。

 その月のうちに、彼女はクリストフの不在中にやって来た。扉《とびら》は閉《し》め切ってあった。クリストフは彼女に部屋の
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