耳を傾けた。そして一人で廊下の掃除《そうじ》をしながら、彼らの台辞回しを小声で真似《まね》たり、身振りをしたりした。そういうところを人に見つけられると、あざけられたり悪口言われたりした。彼女はむっとして口をつぐんだ。――そういう教育法は長くつづくはずだったが、彼女はあるとき不謹慎にも、役者の室から台辞《せりふ》の台本を盗み出した。その役者はひどく怒った。女中よりほかにだれも彼の室にはいった者はなかった。で彼は彼女の仕業《しわざ》だとした。彼女は厚かましく打ち消した。彼は身体じゅうを調べるとおどかした。彼女は彼の足下に身を投げ出して、いっさいのことを白状し、他の窃盗や書物のページを裂き取ったことなど、あらゆる秘密をみな自白した。彼は恐ろしくののしった。しかし見かけほど意地悪くはなかった。なぜそんなことをしたかと尋ねた。女優になるつもりだと彼女が答えると、彼はたいへん笑った。何を知ってるかと尋ねてみた。彼女は覚えてることをみな諳誦《あんしょう》してみせた。彼はびっくりして言った。
「どうだい、俺《おれ》が教えてやろうか。」
 彼女はこの上もなく喜んで、彼の手に接吻《せっぷん》した。
「ああ私は、」とフランソアーズはクリストフに言った。「その男をどんなにか愛するところでした。」しかし役者はそのあとですぐに言い添えたのだった。
「ただ、お前にもわかってるだろうが、魚心あれば水心と言ってね……。」
 彼女は処女だった。人からいろいろ挑《いど》まれても、いつもひどく恥ずかしがってはねつけていた。
 その粗野な貞節、愛のない不潔な行為や卑しい肉欲にたいする嫌悪《けんお》、それらを、彼女は子供のときからもっていた。家の中で周囲に起こる悲しい事柄を見て、つくづく厭気《いやけ》を起こさせられてたからだった。――彼女はそのときもなおそれらを失わないでいた……。ああ不幸な彼女、彼女はひどい罰をになっていたのである! なんという運命の愚弄《ぐろう》だったろう!……
「では、」とクリストフは尋ねた、「あなたは承知したのですか。」
「ああ私は、」と彼女は言った。「それをのがれるためには、火の中に飛び込んでも構わないと思っていました。ところがその男は、泥棒として私を捕えさせるとおどかしたのです。私は他にしかたがなかったのです。――そうして私は、芸術の……また人生の、手ほどきを受けたのでした。」
「ひどい奴だ!」とクリストフは言った。
「ええ、私もその男を憎みました。けれどその後、いろんな人に出会ってみると、もう彼をそんなに悪い人だとは思えなくなりました。少なくとも彼は、約束だけは守ってくれたのです。役者家業について知ってることは――(大したことじゃありませんが)――すっかり私に教えてくれました。私を一座のうちに入れてくれました。初めは皆の召使同様でした。ちょっとした端役《はやく》もやりました。それからある晩、喜劇の侍女が病気になったとき、私は冒険的にその役を受け持たせられました。それから引きつづいてその役をしました。とても駄目《だめ》で滑稽《こっけい》で見苦しいとのことでした。そのころ私は醜い女だったそうです。そして長く醜くかったのが、ついにはすぐれた理想的な女だということになったのです……。「女」ですって!……馬鹿な人たちですわ!――芸のほうは、私のは不正確で乱暴だとの評判でした。見物からは味わってもらえず、仲間からは笑われました。それでも追い出されなかったのは、とにかくいろんな用をしてやったからですし、金もかからなかったからです。私は、金がかからないばかりではなく、こちらから払ってたほどです。ああ、進歩をし地位が上るその一足ごとに、私は自分の肉体で代価を払いました。仲間の者や、主事や、座元や、座元の友だちなどが……。」
 彼女は口をつぐんだ。色|蒼《あお》ざめ、唇《くちびる》をきっと結び、乾《かわ》いた眼つきをしていた。しかし彼女の魂が血の涙を流してることは感ぜられるのだった。一瞬の閃《ひら》めきのうちに、彼女は、それらの恥ずかしい過去のことを、また自分を支持してくれた激しい征服意志のことを、はっきり思い浮かべた。その征服意志は、堪え忍ばなければならない新しい汚行ことに、ますます激しくなっていった。彼女は死を希《ねが》いたかった。しかし恥辱のさなかに斃《たお》れてしまうのは、あまりに忌まわしいことだった。勝利の前に自殺するも、勝利の後に自殺するも、それは構わない。しかしながら、身を汚してその代償を得ないうちは、けっして……。
 彼女は黙っていた。クリストフは憤慨して室の中を歩き回った。この女を苦しめ汚したその奴らを、打ち殺してしまいたかった。それから彼は、憐《あわ》れみ深く彼女をながめ、彼女のそばにたたずんで、その頭を、顳※[#「需+頁」、第3水準1−9
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