しく映ずるのだった。弱くて善良でしかも残酷であり、時には天才の閃《ひら》めきを見せる、かかる女の魂と親和することは、いかに多くのものを彼にもたらしたことであろう! 彼女は彼に、人生や人間について――女について、多くのことを教えてくれた。彼はまだ女性をよく理解していなかったが、彼女は鈍い洞察《どうさつ》力をもって女性を批判していた。ことに彼は彼女のおかげで、劇をよりよく理解するようになった。芸術のうちでもっとも完全なもっとも簡潔なもっとも充実したものである、この驚嘆すべき劇芸術の精神の中に、彼女は彼をはいり込ませた。人間の夢想のこの魔術的な道具を、彼女は彼に開き示してやった。ただ自分のためにのみ書くという彼の傾向――(ベートーヴェンの実例にならって、霊感に接してるときに[#「霊感に接してるときに」に傍点]呪《のろ》うべきヴァイオリンなどのために[#「うべきヴァイオリンなどのために」に傍点]書くということを拒んでる、あまりに多くの芸術家らの傾向)――それに従ってはいけないということを、彼女は彼に教えてやった。偉大なる劇詩人は、きまりきった舞台のために働いたり、自分の自由になし得る俳優らにかえって自分の思想を適応さしたりすることを、少しも恥とはしていない。そうすることによって自分が狭小となるとは思っていない。夢想することはりっぱなことであるとしても、実現することは偉大なことであると、知っているからである。演劇は壁画のごとく一定の場所にある芸術――生きたる芸術である。
そういうふうにフランソアーズが言い現わす思想は、クリストフの思想とよく一致した。クリストフはその当時、他人と交渉ある多衆的芸術の方面へ志していた。フランソアーズの経験は、公衆と俳優との間に縮まれる神秘な共同動作を、彼に感得さしてくれた。フランソアーズはいかにも現実的であって、幻影をあまりいだいてはしなかったけれども、それでもなお、相互暗示の力を、群集に俳優を結びつける同感の波を、多数の魂の深い沈黙のなかからその唯一の代弁者の声が起こってくる働きを、よく見てとっていた。もとより彼女がそういう感情をもつのは、同じ戯曲の同じ場所ででも二度とはほとんど起こることのない、きわめてまれな間歇《かんけつ》的な閃光《せんこう》によってであった。その他の時はいつも、魂のこもらない職務にすぎないし、知的な冷やかな機械作用にすぎなかった。しかし興味あるのはその例外の時である――深い淵《ふち》が、無数の人々の共通な魂が、一閃の光によって寸秒の間てらし出されるときである。その共通な魂の力が、一人の俳優のうちに表現されるのである。
そういう共通な魂をこそ、大芸術家は表現すべきであった。大芸術家の理想は、生きたる客観主義であるべきだった。みずから自我の衣を脱いで、世界を吹き渡る多衆的熱情の衣をまとう、古《いにしえ》の楽詩人に見るような、生きたる客観主義であるべきだった。フランソアーズは、いつも自分自身を演出していて、私心を脱却することができなかっただけに、ますますそういう要求を強く感じていた。――個人的情緒の乱雑な発揚は、一世紀半ばかり以前から、ある病的な趣きを帯びてきている。しかし精神上の偉大さは、多く感じ多く支配することにある。言葉は簡潔で思想は貞節であることにある。思想を並べたてないことにある。半音にして了解する人々に向かって、男子に向かって、幼稚な誇張や女々《めめ》しい激情なしに、一つの眼つきで、一つの深い言葉で、話しかけることにある。近代の音楽は、あまりに自己のことばかりを語って、あらゆる事柄に不謹慎な内密話を交えるので、貞節と趣味とを欠いている。それはあたかも、自分の病気のことばかりを訴えて、その厭《いや》な笑うべき病状をこまかく語って飽きない、一種の病人に似ている。フランソアーズは音楽家ではなかったけれど、音楽が詩を食い荒らす蛸《たこ》のように、詩を害しながら発展してゆくのをさえ、一つの頽廃《たいはい》的兆候と見なしがちだった。クリストフはそれに反対した。しかしよく考えてみると、彼女の言うところも多少真実ではあるまいかと疑った。ゲーテの詩に基づいて書かれた最初のうちの歌曲[#「歌曲」に傍点]は、簡潔で正確だった。やがてシューベルトは、自分の情熱的な感傷をそれに交えた。シューマンは、小娘めいた懶惰《らんだ》さをそれに交えた。そしてフーゴー・ヴォルフに至るまで、大袈裟《おおげさ》な空《から》調子や、無作法な分析や、魂の片隅《かたすみ》をも暗所に残さないという主張などのほうへ、その運動は進んでいっている。心の神秘の上に掛かってた帷《とばり》はみな引き裂かれている。ラトラン聖殿の黒布をまとった一ソフォクレスによって簡潔に言われた事柄が、今日では、真裸な姿を見せる猥《みだ》らなメナードどもに
前へ
次へ
全85ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング