由な音楽とを結合した芸術――現代の芸術家がほとんど思いついていないものであって、ワグナー派の伝統にしみ込んだ旧慣墨守の批評家らが、否定してかかってるものであった。それは新しい作品だった。ベートーヴェンやウェーバーやシューマンやビゼーなどは、天才をもって插楽劇《メロドラマ》を実際にこしらえてはいるけれど、その足跡をたどるのが、主眼ではない。なんらかの音楽の上になんらかの語られる声を張りつけて、顫音《トレモロ》を伴わせながら無理やりに、粗野な公衆へ粗野な効果を与えるのが、主眼ではない。音楽的な声がそれに配せられる楽器と結合して、その流暢《りゅうちょう》な各節に音楽の夢想と愁訴との反響を慎み深く混和してる、新しい一種類を創《つく》り出すのが主眼である。かかる形式を適用することができるのは、一定の範囲内にとどまる主題にたいしてばかりであり、人の魂がその詩的な香《かお》りを発散させんと、しみじみ沈潜している瞬間にたいしてばかりである。これほど慎重で貴族的であらなければならない芸術は、他に存しない。それゆえに、芸術家らの言説に反して成り上がり者の深い凡俗性の匂《にお》いがしてる時代においては、この芸術が花を咲かせる機会をあまりもたないことは、自然の理である。
こういう芸術にたいしては、おそらくクリストフは、他の芸術家たちと同様に不適任であるかもしれなかった。彼の長所そのものが、彼の平民的な力が、ここでは一つの障害となっていた。彼はただこの芸術を頭に浮かべたばかりであり、フランソアーズの助力で多少の草案を作り得たにすぎなかった。
彼はかくて、聖書《バイブル》の数ページをほとんど原文どおりに取ってきてそれを音楽に移した。――たとえばヨセフのあの不滅な一場面であって、そこでヨセフは、兄弟たちに自分の身の上を明かし、そして、多くの困難の後にもはや感動と愛情とに堪えきれなくなって、老トルストイやその他多くの者に涙を流さしたような、つぎの言葉を低くささやくのである。
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われはもはやみずから忍ぶことあたわず……。聞けよ、われはヨセフなり。わが父はなお生きながらえおるや。われは汝《なんじ》らの弟、姿|失《う》せたりし汝らの弟なり……。われはヨセフなり……。
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この美しい自由な共同生活は、長くつづくことができなかった。二人はいっしょに力強
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