なかった。しかし興味あるのはその例外の時である――深い淵《ふち》が、無数の人々の共通な魂が、一閃の光によって寸秒の間てらし出されるときである。その共通な魂の力が、一人の俳優のうちに表現されるのである。
 そういう共通な魂をこそ、大芸術家は表現すべきであった。大芸術家の理想は、生きたる客観主義であるべきだった。みずから自我の衣を脱いで、世界を吹き渡る多衆的熱情の衣をまとう、古《いにしえ》の楽詩人に見るような、生きたる客観主義であるべきだった。フランソアーズは、いつも自分自身を演出していて、私心を脱却することができなかっただけに、ますますそういう要求を強く感じていた。――個人的情緒の乱雑な発揚は、一世紀半ばかり以前から、ある病的な趣きを帯びてきている。しかし精神上の偉大さは、多く感じ多く支配することにある。言葉は簡潔で思想は貞節であることにある。思想を並べたてないことにある。半音にして了解する人々に向かって、男子に向かって、幼稚な誇張や女々《めめ》しい激情なしに、一つの眼つきで、一つの深い言葉で、話しかけることにある。近代の音楽は、あまりに自己のことばかりを語って、あらゆる事柄に不謹慎な内密話を交えるので、貞節と趣味とを欠いている。それはあたかも、自分の病気のことばかりを訴えて、その厭《いや》な笑うべき病状をこまかく語って飽きない、一種の病人に似ている。フランソアーズは音楽家ではなかったけれど、音楽が詩を食い荒らす蛸《たこ》のように、詩を害しながら発展してゆくのをさえ、一つの頽廃《たいはい》的兆候と見なしがちだった。クリストフはそれに反対した。しかしよく考えてみると、彼女の言うところも多少真実ではあるまいかと疑った。ゲーテの詩に基づいて書かれた最初のうちの歌曲[#「歌曲」に傍点]は、簡潔で正確だった。やがてシューベルトは、自分の情熱的な感傷をそれに交えた。シューマンは、小娘めいた懶惰《らんだ》さをそれに交えた。そしてフーゴー・ヴォルフに至るまで、大袈裟《おおげさ》な空《から》調子や、無作法な分析や、魂の片隅《かたすみ》をも暗所に残さないという主張などのほうへ、その運動は進んでいっている。心の神秘の上に掛かってた帷《とばり》はみな引き裂かれている。ラトラン聖殿の黒布をまとった一ソフォクレスによって簡潔に言われた事柄が、今日では、真裸な姿を見せる猥《みだ》らなメナードどもに
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