いほうでは通俗小説的なこしらえられた言葉であった。韻文はゲーテのつぎのような警句を裏書きしていた。
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詩は何も言うべきことをもたない人々にとってはよいものである。
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フランス劇の詩は、冗長なこね回した散文にすぎなかった。心情から来るなんらの必要もなしに、技巧をこらした形象がやたらにつみ重ねられてるため、どの真面目《まじめ》な人物もみな虚偽的な様子になっていた。クリストフは、飾りたてた発声法をもってる大仰《おおぎょう》な甘ったるい節回しのイタリー歌劇《オペラ》を重んじなかったが、それらの詩劇をもまた同様に重んじなかった。彼には脚本よりも俳優のほうがはるかに興味深かった。そしてまた、作者のほうも俳優を真似《まね》ようとつとめていた。「俳優の欠点にかたどって作中人物の性格をこしらえるだけの注意がないかぎりは[#「俳優の欠点にかたどって作中人物の性格をこしらえるだけの注意がないかぎりは」に傍点]、脚本が多少の成功をもって演ぜられることは望み得られなかった[#「脚本が多少の成功をもって演ぜられることは望み得られなかった」に傍点]。」ディドゥローがそういうことを書いた時代から、事情はほとんど変わっていなかった。人物に扮《ふん》する役者のほうがかえって、芸術のモデルとなっていた。成功を博した役者はすぐに、自分の芝居と、阿諛《あゆ》的な仕立屋たる自分の作者と、尺度に合わした自分の脚本を、もつようになるのだった。
文学界の流行となってるそれらの大きな案山子《かがし》のうちに、フランソアーズ・ウードンという女優がクリストフの注意をひいた。彼女はようやく一、二年前からパリーでもてはやされてるのだった。彼女もまたもとより、自分の役を脚本に書いてくれる作家らをもっていた。けれども彼女は、自分のためにこしらえられた作品ばかり演じてはいなかった。彼女のかなり雑多な出し物は、イプセンからサルドゥーに及び、ガブリエル・ダヌンチオから子デューマに及び、バーナード・ショーからアンリー・バタイユにまで及んでいた。時とすると大胆にも、古典文学の六脚詩の大道に踏み込んだりシェイクスピヤの形象の激流に飛び込んだりした。しかしそういう方面では気楽にいかなかった。彼女はいろんな役を演じてはいたが、実はいつも自分一人だけを演じてるのだった。それが彼女の弱みでありま
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