笊ィや面影にとり囲まれていた。そしてそれらをあまり見つめてるために、娘の姿がもう浮かばなくなった。死んだ面影は生きた面影を殺してしまった。もう娘の姿が見えなくなった。そして彼女はなお固執した。ただ娘のことばかり考えたがった。そのためについには、もう娘のことも考えられなくなった。死の仕事を完成さしてしまった。そこで彼女は、心は化石し、涙はなくなり、生命の泉は涸《か》れはてて、凍りついたようになった。彼女には宗教も助けとならなかった。宗教上の務めを行なってはいたが、それも好んで行なうのではなく、したがって生きた信仰をもって行なうのではなかった。ミサのために金を出してはいたが、その仕事に少しも進んで加わりはしなかった。彼女の全宗教は、も一度娘を見たいというただ一つの考えの上に立っていた。その他のことはどうでもよかった。神は? 神も何になろう。も一度娘を見ること……。そして彼女はそのことをもなかなか信じられなかった。それを信じたがり、堅く必死にそれを望んではいたが、果たしてできるかを疑っていた。彼女は他の子供たちを見るに堪えられなかった。彼女は思った。
「どうしてあの子供たちは死ななかったのだろう?」
 その町内に、身長から物腰から彼女の娘そっくりの少女が一人いた。その小さな垂髪《おさげ》をしてる後ろ姿を見たとき、彼女は震え上がった。彼女は娘のあとを追っかけた。そして、娘が振り向いて、あの子[#「あの子」に傍点]でないことがわかると、彼女はその娘を絞め殺してでもやりたかった。それからまた、エルスベルゼの娘たちは、ごく静かだったし教育によってよく躾《しつ》けられていたけれど、それにもかかわらず彼女は、その娘たちが上の階で騒々しい音をたてると不平言っていた。娘たちが室の中をあちこち歩きだすと、彼女は女中をやって静かにしてほしいと申し込んだ。クリストフはあるとき、その娘たちといっしょに帰ってきて彼女に出会ったが、彼女からきびしい眼つきでじろりと見られたのにびっくりした。
 夏のある晩、この生きながら死んでるとも言える夫人は、暗がりのなかに窓ぎわにすわって、むなしくぼんやりしていたが、クリストフのひくピアノの音が聞こえてきた。クリストフはいつもその時刻になると、ピアノをひいて夢想にふけるのが常だった。ところがその音楽は、彼女がうっとりしてる空寂の境地を乱して、彼女をいらだたせた。彼女は怒って窓を閉《し》めた。音楽は室の奥までも追っかけてきた。彼女はそれにたいして一種の憎悪《ぞうお》を覚えた。クリストフに演奏をやめさせたかった。しかし彼女にその権利はなかった。やがて毎日同じ時刻に、ピアノが始まるのをいらいらしながら待つようになった。始まるのがおそいと、いらだちはますます強くなった。彼女はその音楽を最後まで厭《いや》でも聴《き》かせられた。そして音楽が終わってしまうときには、いつもの無情無感の境地にはなかなかはいれなくなっていた。――そしてある晩、暗い室の隅《すみ》に縮こまってる彼女のもとまで、遠い音楽が、壁や閉め切った窓越しに響いてきたとき、彼女はぞっと身震いを感じて、涙の泉が新たにほとばしってきた。彼女は窓を開いた。それから涙を流しながら耳を傾けた。音楽は雨に似ていて、彼女の涸渇《こかつ》した心に一滴ずつしみ込み、その心をよみがえらせた。彼女はふたたび、空を星を夏の夜をながめた。生にたいする興味が、人間的な同感が、まだ蒼白《あおじろ》い曙光《しょこう》のように現われてくる心地がした。そしてその夜、幾月目かに初めて、娘の面影が彼女の夢想のうちに現われてきた。――われわれを故人に近づけるもっとも確かな道は、故人と同様に死ぬことにあるのではなくて、生きることにあるのである。故人はわれわれの生によって生き上がり、われわれの死によって死んでゆく。
 彼女はクリストフに会おうとは求めなかった。しかし彼が娘たちと階段を通る足音を聞いていた。そして扉《とびら》の後ろに隠れて子供たちの饒舌《おしゃべり》をうかがっていた。それを聞き取ると胸をどきつかせた。
 ある日彼女が出かけようとしていたとき、階段を降りてくる小さな刻み足の音が聞こえた。いつもより少し騒々しかった。子供の声が妹に向かって言っていた。
「リュセット、そんなに騒々しくしちゃいけないわよ。ねえ、クリストフさんが言ったじゃないの、奥さんが悲しがっていらっしゃるからって。」
 すると小さいほうは足音を忍ばせ小声で話しだした。ジェルマン夫人はもう堪えられなかった。扉を開き、娘たちをとらえ、荒々しく抱擁してやった。娘たちは恐《こわ》がった。一人は泣き出した。夫人は二人を放して、室にはいった。
 それ以来、彼女はその娘たちに出会うと、強《し》いて笑顔を見せた。ひきつった微笑だった。――(彼女は微笑《ほほえ》む習慣を失ってしまっていた。)――彼女は娘たちにだしぬけのやさしい言葉をかけた。娘たちは怖《お》ずおずしていて、気圧《けお》された囁《ささや》きで答えるばかりだった。娘たちはやはり夫人を恐がっていた。前よりいっそう恐がっていた。その扉の前を通るときには、つかまりはすまいかと気づかって駆け出すようになった。彼女の方では、身を隠して二人を見ていた。恥ずかしい思いをしていた。亡くなった娘に全部独占の権利がある愛情を、少しばかり盗み取ることのような気がした。彼女はひざまずいて娘に許しを求めた。しかし生きそして愛する本能が眼覚《めざ》めた今となっては、彼女はどうすることもできなかった。その本能のほうが彼女より強かった。
 ある晩――クリストフが外から帰ってきたある晩――家の中がいつになくごたついていた。ヴァトレー氏が胸の痛みで頓死《とんし》したところであることを、彼は知った。あとに一人残された娘のことを考えて、彼はしみじみと同情を覚えた。ヴァトレー氏の親戚《しんせき》は一人もわかっていなかった。そして娘はほとんど無一文の状態で残されたらしかった。クリストフは大胯《おおまた》に階段を上がっていって、扉《とびら》が開け放してある四階の部屋にはいり込んだ。見ると、コルネイユ師が死者のそばについており、小さな娘が涙にくれて父を呼んでいた。門番の女が彼女に向かってへまな慰め方をしていた。クリストフは娘を両腕に抱き取って、やさしい言葉をかけてやった。娘は絶望的に彼にすがりついてきた。彼は娘をその部屋から連れ出そうとした。しかし彼女は出たがらなかった。で彼もいっしょに居残った。かげってゆく明るみの中で、窓ぎわにすわって、彼はなお両腕に娘をゆすってやった。娘は少しずつ落ち着いてきた。すすり泣きのうちに眠った。彼はそれを寝台の上におろして、無器用な手つきで小さな靴《くつ》の紐《ひも》を解いてやったりした。夜になりかかっていた。部屋の扉は開いたままになっていた。一つの人影が衣裳の衣擦《きぬず》れの音をたててはいって来た。名残りの夕映えの光でクリストフは、喪服をつけた婦人の熱っぽい眼を認めた。彼女は室の入口に立ったまま、喉《のど》をつまらした声で言った。
「私が参りましたのは……あの……私にその子を任せてくださいませんか。」
 クリストフは彼女の手をとった。ジェルマン夫人は涙を流していた。それから彼女は寝台の枕頭《ちんとう》にすわった。ちょっと間を置いてから彼女は言った。
「私が今晩この子をみてやりましょう……。」
 クリストフはコルネイユ師とともに、自分の階へ上がっていった。牧師は少しきまり悪げに、やって来た弁解をした。やって来たことを死者からとがめられなければよいがと、卑下した言い方をしていた。牧師として来たのではなくて、友人として来たのだと言っていた。
 翌朝、クリストフがふたたび行ってみると、自分の気に入った人へすぐに身を託する子供特有の率直な信頼さで娘はジェルマン夫人の首に抱きついていた。娘は新しい味方に引き取られることを承知した……。ああ彼女は早くもその養父を忘れていた。新しい養母へ同じような愛情を示していた。それはあまり安心できる事柄ではなかった。ジェルマン夫人の利己的な愛はこのことに気づいていたであろうか……おそらく気づいたであろう。しかしそれは大したことではない。愛することが肝要だ。幸福はそこにある……。
 葬式の数週間後にジェルマン夫人はその娘をパリーから遠い田舎《いなか》へ連れていった。クリストフとオリヴィエとはその出発を見送った。若い夫人はかつて彼らが見かけなかったような、ひそかな喜びの表情を浮かべていた。彼女は彼らになんらの注意も向けなかった。けれども出かけるさいに、彼女はクリストフを見かけて、手を差し出して言った。
「あなたのおかげで救われました。」
「どうしたというんだろう、あんな変な真似《まね》をして?」とクリストフは階段を上がって行きながら、びっくりした様子でオリヴィエに尋ねた。
 それから数日たつと、彼は一枚の写真を郵送された。写真には、一人の見知らぬ娘が、腰掛にすわって、小さな手を膝《ひざ》の上に行儀よく組み合わせ、清らかな愁《うれ》わしい眼で彼をながめていた。その下に、つぎのような文句が書いてあった。
 ――亡くなった私の娘があなたに御礼を申し上げます。

 かくてそれらの人の間に、新しい生の息吹《いぶ》きが通っていった。上のほうに、六階の屋根裏に、力強い人間性の炉が燃えていて、その光が徐々に家の中へさし込んでいった。
 しかしクリストフは少しもそれに気づかなかった。彼にとってはそれはあまりに緩慢だった。
「ああ、」と彼は嘆息した、「各種の信仰をもち各種の階級に属していて、たがいに知り合うことさえ望んでいないあのりっぱな人たちを、みんな親密にならせることができたらなあ! どうにもしかたがないのかしら。」
「君はどうしようというのか?」とオリヴィエは言った。「君が言うとおりになるには、相互の寛容と同情の力とが必要だろう。そしてそれらが生まれ出てくる唯一の源は、内心の喜びである――健全な順当ななごやかな生活の喜びである――自分の活動力を有益に使ったという喜び、何かある偉大なもののために役だったと感ずる喜びである。そしてそのためには、偉大な時期もしくは――(このほうがなおいいのだが)――偉大へ向かいつつある時期にある、一つの国が必要だろう。それからまた――(これは前者と両立し得るものだが)――あらゆる人々の精力を働かせるすべを心得てる一つの力が、各党派の上に立つべき賢く強い一つの力が、必要だろう。ところが、各党派の上に立つ力と言っては、ただ一つきりない。それは、群集からではなく自分自身から力を引き出すところの力だ。無政府的な多衆に頼ろうとすることなく、おのれの功績によって万人にのしかかってくる力、常勝将軍、公衆の安危の独裁者、知力の最上者……そういう種類のものだ。しかるに、そういうものはわれわれの関知するところではない。必要なのは、機会が生ずることであり、機会をとらえ得る人々が現われることである。必要なのは幸運と天才とである。待ちそして希望をかけようじゃないか。力はあるのだ。古いフランスと新しいフランスとの、もっとも大なるフランスの、信仰と学問と仕事との種々の力が……。いざとなったら、それらの力をことごとく結合して突進させる謎《なぞ》の言葉が発せられたら、いかに大なる進展力となることだろうか! もとよりその言葉を発し得る者は、君でも僕でもない。だれがそれを発するだろうか? 勝利だろうか、光栄だろうか?……いや、忍耐なのだ! もっとも肝要なことは、民族のうちにあるすべての力強いものが、積もり重なってゆき、みずからおのれを破壊せず、時期が来ない前に意気|沮喪《そそう》しないことだ。幸運と天才とは、多年の堅忍と勉励と信念とによってそれに催し得る民衆にしか、やって来るものではない。」
「どうだか?」とクリストフは言った。「幸運と天才とは、思ったよりも早く――思いもかけないときに、往々やって来るものだ。君たちは長い年月をあまり頭に置きすぎてる。用意しておきたまえ。帯を締め直したまえ。常に靴を足につ
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