獅フ念をいだいていた。
 クリストフは、ヴェール氏に同情を寄せることについては、少佐ほどの理由ももってはいなかった。しかし彼は不正を看過することができなかった。シャブランがヴェール氏を非難するときには、いつも弁護の労をとっていた。
 ある日、例によって少佐が種々の事態をののしりだすと、クリストフは言った。
「それはあなたがたのほうが悪いんです。あなたがたはみな隠退しています。フランスで万事が自分の思いどおりにいっていないとなると、ぶっきら棒に職を辞してしまうじゃありませんか。あたかも敗北を宣言するのを名誉とでもしてるがようです。それほど失敗に意気込む者が他にあるでしょうか。あなたは戦争をされたのですが、そんなのが戦いの仕方ですか?」
「何も戦いの問題じゃない。」と少佐は答えた。「フランスと戦う奴があるものですか。君が言うようなその争闘では、口をきいたり議論したり投票したり、多くの無頼漢《ならずもの》と不快な接触をしなければならない。そんなことは僕には不向きです。」
「たいへん厭気《いやけ》がさしていられますね。しかしアフリカでは、あなたはやはり無頼漢らと接していられたじゃありませんか。」
「いやそのことなら、僕はそれほど厭《いや》ではなかった。それにいつでもやっつけてやれた。そのうえ、戦うには兵士どもが必要だ。あちらでは僕は部下の狙撃《そげき》兵をもっていた。しかしこちらでは一人きりです。」
「それでも善良な人に乏しかありません。」
「ではどこにいるんです?」
「どこにでもいます。」
「そんなら、その連中は何をしてるんです?」
「あなたと同様に、何にもしていませんし、しかたがないと言っています。」
「とにかく一人だけでも名ざしてごらんなさい。」
「お望みなら三人ほど名ざしましょうか。しかもあなたと同じ家にですよ。」
 クリストフはヴェールを名ざした――(少佐は声をたてた)――つぎにエルスベルゼ兄弟を名ざした――(少佐は飛び上がった。)
「あのユダヤ人が、あのドレフュース派どもが?」
「ドレフュース派ですって?」とクリストフは言った。「それがどうしたんですか。」
「奴らこそフランスを害したのだ。」
「しかし彼らはあなたと同じくフランスを愛しています。」
「それじゃ狂人だ、有害な狂人だ。」
「敵をも正当に批判してやれないものでしょうか。」
「公然たる武器をもって戦う公正な敵となら、僕は完全に理解し合える。その証拠にはドイツ人たる君と僕はこのとおり話し合っています。われわれが受けた打撃に利子をつけて他日返報してやろうと思ってるから、僕はドイツ人を大事にしている。しかし他の敵は、内部の敵は、同じわけにはゆかない。彼らは不正な武器を、不健全な理屈を、毒のある人道主義を、使用している……。」
「なるほどあなたは、初めて火薬に出会った中世の騎士たちと、同じ精神状態にいるんですね。やむを得ないことではないですか。戦争は進化してゆくものです。」
「よろしい。それじゃ直截《ちょくせつ》に言って、戦争だということにしよう。」
「それでもし共通の敵がヨーロッパを脅かすとしたら、あなたがたはドイツと同盟しませんか。」
「僕たちはシナでそれをやった。」
「ではあなたの周囲を見てごらんなさい。あなたの国は、わがヨーロッパの各国は、その民族の勇壮な理想主義を、現在脅かされてはしないでしょうか。みな多少とも政治や思想の山師どもの餌食《えじき》となってはしないでしょうか。その共通の敵に反抗してあなたは、ある精神力をもってる敵と協力すべきではないでしょうか。あなたのような人が、どうしてそんなに現実の問題を軽視されるのですか。あなたがたに対抗して異なった理想を主張してる人たちもいます。ところが理想は一つの力であって、あなたがたもその力を否定することはできません。あなたがたが最近なされた戦いにおいては、敵の理想からあなたがたは打ち敗られたのです。けれども、その敵の理想に対抗して自分を疲らすよりも、あらゆる理想の敵に対抗して、祖国を利用する奴らに対抗して、ヨーロッパ文明を腐敗させる奴らに対抗して、なぜあなたがたは自分の理想と敵の理想とを併《あわ》せ用いないのですか。」
「だれのためにです? まず事情を明らかにしておかなければならない。われわれの敵に勝利を得させるためにですか。」
「あなたがたがアフリカにおられたときには、戦ってるのは国王のためにだかもしくはフランス共和国のためにだか、それを知ろうと懸念されはしなかったでしょう。私の想像するところでは、あなたがたの多くはフランス共和国のことをほとんど考えてもいられなかったでしょう。」
「そんなことは気にもかけていなかった。」
「そうです! そしてそれがフランスのためになったのです。あなたがたは、フランスのために、そしてまたあなたがた自身のために、征服なすったのです。そこで、この国内でも、同様になさい。戦いの範囲をお広げなさい。政治や宗教などの些事《さじ》のために指弾し合ってはいけません。それは取るに足らぬ事柄です。あなたがたの民族が、教会の嫡流《ちゃくりゅう》であろうと理性の嫡流であろうと、それは大したことではありません。生きることが必要です。生をさかんならしむるものはすべていいものです。世にあるただ一つの敵は、生の泉を涸《か》らし汚す享楽的な利己主義です。力をさかんにし、光明をさかんにし、豊かな愛を、犠牲の喜びを、さかんになさい。他人から代わって活動してもらってはいけません。活動なさい、活動なさい、団結なさい、さあ!……」
 そして彼は、合唱付交響曲[#「合唱付交響曲」に傍点]の変ロ長調行進曲の初め数小節を、ピアノでやたらにたたき出した。
「いいですか、」と彼はひきやめながら言った、「僕がもしフランスの音楽家だったら、シャルパンティエかブリュノー……(どいつも駄目《だめ》だ)――僕なら、合唱交響曲のうちに、あなたがたを皆いっしょにしてみせます、市民よ武器執れ[#「市民よ武器執れ」に傍点]も、万国労働歌[#「万国労働歌」に傍点]も、アンリー四世万歳[#「アンリー四世万歳」に傍点]も、神はフランスを護る[#「神はフランスを護る」に傍点]も――ありったけのものを――(そら、こういう種類のうちに……)――口を焼けただらすほどのごった煮をこしらえてみせます。それは少したまらないかもしれません――(がとにかく彼らが作ってるものほど悪いものではない。)――しかし僕は保証しますが、それはあなたがたの腹を温《あたた》めるでしょう、そしてあなたがたは歩き出さざるを得なくなるでしょう。」彼は心から笑っていた。
 少佐も彼と同じく笑った。
「クラフト君、君はまったく元気な男だ。君がわれわれの仲間でないのは残念なことだ。」
「いや僕はあなたがたの仲間ですとも。どこへ行ったって同じ戦いです。列を固めようじゃないですか。」
 少佐は賛成した。しかし事情は以前のとおりだった。そこでクリストフはあくまで固執して、ヴェール氏やエルスベルゼ兄弟の上に話をもどした。すると少佐も同じく固執して、ユダヤ人やドレフュース派にたいする持論を繰り返した。
 クリストフはそれを寂しがった。オリヴィエは彼に言った。
「くよくよするなよ。一人で社会の精神状態を一挙に変えることができるものか。それはあまりによすぎる事なんだ。しかし君は自分で知らずにもう多くのことをしている。」
「何を僕がしてるんだい?」とクリストフは言った。
「君は一個のクリストフとなってる。」
「それがなんで他人のためになるのか。」
「大いにためになるさ。だがクリストフ、君はただ君自身でありたまえ。僕たちのことに気をもまないようにしたまえ。」
 しかしクリストフはあきらめられなかった。彼はなおシャブラン少佐と議論をつづけ、時には猛烈に言い合うこともあった。セリーヌはそれを面白がっていた。彼女は黙って仕事をしながら二人の話を聞いていた。議論には加わらなかった。けれど以前よりも快活になったように見えた。以前よりも多くの輝きを眼つきに帯びていた。前よりも広い空間が彼女のまわりにできたようだった。彼女は読書を始め、外出することがやや多くなり、興味をもつ事柄が多くなった。そしてある日少佐は、エルスベルゼ兄弟のことでクリストフと論争してるとき、彼女が微笑《ほほえ》んでるのを認めた。彼は彼女にどう思うかと尋ねた。彼女は平然と答えた。
「クラフトさんのほうが道理《もっとも》だと思いますわ。」
 少佐はまごついて言った。
「そりゃひどい!……だが結局、道理であろうがあるまいが、われわれは今のままで満足だ。あんな人たちに会う必要はない。ねえお前、そうじゃないか。」
「いいえ、お父《とう》様、」と彼女は答えた。「お会いしたほうが私はうれしゅうございますわ。」
 少佐は口をつぐんで、聞こえなかったようなふうをした。が彼自身でも、様子にはそれと見せたくなかったが、クリストフの影響をかなり感じていた。彼は批判の偏狭さと気質の猛烈さとにもかかわらず、正しい精神と寛大な心とをそなえていた。彼はクリストフが好きで、その率直さと精神の健全さとを好んでいて、クリストフがドイツ人であるのがしばしば遺憾でたまらなかった。彼はクリストフとの議論中によく憤激したが、それでもなおそういう議論を求めていた。そしてクリストフの理論は彼に働きかけずにはいなかった。彼はそのことを承認すまいと用心していた。ところがある日クリストフは、彼が一冊の書物に読みふけってるのを見出した。彼はその書物をどうしても見せなかった。するとセリーヌは、クリストフを送り出してきて二人きりになると言った。
「お父《とう》様が何を読んでいられたか御存じですか。あれはヴェールさんの書物ですよ。」
 クリストフはうれしくなった。
「そしてなんとおっしゃっていましたか。」
「この畜生め!……と言っていらしたわ。でもそれを手放しかねていらっしゃるのよ。」
 クリストフはそのことについては、少佐に会ってもなんとも言わなかった。少佐のほうから彼に尋ねてきた。
「あのユダヤ人のことで僕をいじめなくなったのは、どうしたわけですか。」
「もうそれに及ばないからです。」とクリストフは言った。
「なぜ?」と少佐はむきになって尋ねた。
 クリストフは答えないで、笑いながら帰っていった。

 オリヴィエが言ったことは道理だった。人が他人に働きかけるのは、言葉によってではない。その存在によってである。眼つきや身振りや清朗な魂の無音の接触によって、自分のまわりに慰撫《いぶ》的な空気を光被してる人たちが世にはある。クリストフは生命の気を光被していた。それはこの麻痺《まひ》した家の古い壁や閉《し》め切られた窓を通して、春の暖気のようにごく徐々にさし込んでいった。そして、悲しみや弱さや孤独のために、数年来腐食され涸渇《こかつ》されて死滅に委《ゆだ》ねられてる人々の心を、またよみがえらせていった。魂が魂に及ぼす力よ! しかもそれを受くる魂も及ぼす魂も共にそのことを知らないでいる。それでも世の生活は、この神秘な引力に支配されてる干潮と満潮とでなってるのである。
 クリストフとオリヴィエの部屋から二階ほど下に、前に述べたとおりジェルマン夫人という三十五歳の若い女が住んでいた。二年前に夫を失い、また前年に七、八歳の娘を失ったのだった。そして姑《しゅうとめ》といっしょに暮らしていた。彼女らはだれにも会わなかった。その家の借主たちのうちで、クリストフともっとも交渉の少ない人たちだった。ほとんど出会うこともなかったし、言葉をかけ合うこともかつてなかった。
 彼女は背が高く痩《や》せたかなり姿のいい女だった。褐色《かっしょく》の曇った美しい眼は、やや表情に乏しかったが、時とすると、陰気なきつい炎が輝きだした。蝋《ろう》のような黄色っぽい顔、平たい頬《ほお》、引きしまった口をもっていた。ジェルマン老夫人のほうは信心家でいつも教会堂にばかり行っていた。若夫人は一人でしつこく喪にこもっていた。彼女は何物にも興味をもたなかった。娘の
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