「する、同じような嫌悪《けんお》の念をいだいていた。ほとんどすべての人々が、おのが民族に裏切られた魂についての、寂しいかつ矜《ほこ》らかな意識をもっていた。そしてそれは、個人的|怨恨《えんこん》の事柄ではなかった。免職された官吏や、用途のない精力や、傷ついた獅子《しし》のように自分の土地に隠退して死んでゆく古い貴族など、すべて権力や活動的生活から追われてる、敗北した人々や階級の怨嗟《えんさ》ではなかった。それは、一般的な深い暗黙な精神的反抗の感情だった。軍隊や司法界や大学や官省や、政府機関のあらゆる主要な部分に、至るところに存在していた。しかしそれらの人々は行動してはいなかった。行動しない前から失望していた。彼らは繰り返し言っていた。
「しかたがないことだ。」
彼らは悲しい事柄を恐れて、それから思考や談話をそらしていた。そして、家庭生活のなかに隠れ家を求めていた。
彼らが政治上の行動からだけ引退したのなら、まだしもだった。しかし日常の行動の範囲内においてさえ、それら誠実な人々はだれもみな行動の興味を失っていた。彼らは軽蔑《けいべつ》してる悪者どもとの賤《いや》しい交際は大目に見ていたが、それと闘《たたか》うことは無益だと前もって考えていて、なるべく闘いをしないように用心していた。たとえば芸術家らは、ことにクリストフがよく知ってる音楽家らは、彼らに勝手なことをする新聞雑誌のスカラムーシュどもの厚顔を、なぜ反抗もしないで堪え忍んでいたのか。多くの愚人どもがいて、およそ人の知り得るあらゆる事に[#「およそ人の知り得るあらゆる事に」に傍点]無知であるのが知れ渡っていながら、それでもやはり、およそ人の知り得るあらゆる事に[#「およそ人の知り得るあらゆる事に」に傍点]主権的な力を与えられていた。彼らは自分の論説や書物を書くだけの労さえ取らなかった。彼らには秘書どもがついていた。もし魂をもってたとしたら、パンや女のためにその魂をも売りかねない、憐《あわ》れむべき飢えた乞食《こじき》どもがついていた。それはパリーでは、だれ知らぬ者のない事柄だった。それでも彼らはなお羽振りをきかせ、芸術家たちを上から見下していた。彼らの記事のあるものを読んだとき、クリストフは憤激の叫びを発した。
「おう、卑怯者《ひきょうもの》が!」と彼は言った。
「君はだれにたいし言ってるんだい。」とオリヴィエは尋ねた。「相変わらず広場の市《いち》の馬鹿者どもを相手にしてるのか。」
「いや、誠実な人たちに言ってるんだ。悪者どもがのさばって、嘘《うそ》をつき奪い盗み人殺しをしている。しかしその他の者を――彼らを蔑視《べっし》しながら勝手なことをさせてる人たちを、僕ははるかに多く軽蔑する。新聞雑誌の仲間たちが、誠実な教養ある批評家たちが、無定見なアールカンどもにわいわい言われてる芸術家たちが、臆病《おくびょう》から、災いをこうむる恐れから、あるいは、相互に容赦するという恥ずべき打算から、敵の打撃を免れるために敵と結んだ一種の密約から、奴《やつ》らをなすままに任して黙っていることがなかったならば――もし彼らがその庇護《ひご》と友情とを奴らに利用されるままに任せることがなかったならば、奴らの厚顔な威勢は単なる物笑いとなってしまうだろう。あらゆる方面に同様な気弱さがある。僕が出会った多くの善良な人々は、ある男について『彼奴《あいつ》は馬鹿者だ』と僕に言ってきかせながら、その男を『親しい仲間』と呼びかけて握手しないような者は、一人もなかった。――『あんな人間が多すぎる』と彼らは言っている。――がまったく腰抜けが多すぎる。誠実でありながら卑怯である者が多すぎるのだ。」
「ではどうせよというんだ?」
「君たち自身で警察事務をやるのさ! 君たちは何を待ってるのか。仕事を天に引き受けてでももらいたいのか。そら、ちょうど見てみたまえ。雪が降ってから三日になる。雪は街路を埋め、パリーを泥海《どろうみ》にしている。が君たちは何をしてるのか。君たちを泥水の中に放っておく施設にたいしては非難の声をあげている。しかし君たち自身はそれから脱しようとしているか。あきれたことだ。腕を拱《こまぬ》いてばかりいて、だれも家の前の歩道を掃くだけの勇気をもっていない。国家も個人もともにその義務を尽くしていない。両者たがいにとがめ合って責を免れたと思っている。君たちは数世紀間の君主主義的教育のため、自分自身で何にもしないことに馴《な》れきっていて、奇跡を待ちながらいつもぼんやり天を仰いでるような様子だ。がここに可能な唯一の奇跡は、君たちが行動の決意をするということだろう。ねえオリヴィエ、君たちはたくさんの知力と美徳とをもっている。しかし血が君たちには不足している。第一に君には不足している。君たちのうちで病衰してるものは、精神でも心でもない。それは生命なんだ。生命が逃げ去りかけてるんだ。」
「しかたないさ。生命がもどってくるのを待つよりほかはない。」
「生命がもどってくるのを欲しなければいけない。意欲する[#「意欲する」に傍点]ことが必要なのだ。そしてそのためにはまず、自分の家に清い空気をはいらせなければいけない。家から外に出たくないときには、少なくとも家を健全にしておかなければいけない。君たちは市場《いちば》の悪い空気で家を毒されるままにしている。君たちの芸術と思想とは三分の二以上悪変させられてる。そして君たちは意気|沮喪《そそう》のあまり、もうそれを憤ろうともしないし、ほとんど驚こうともしない。気おくれがしてるそれらのばかな善人らのうちには、自分らのほうが誤りで欺瞞《ぎまん》者どものほうが正当だと、ついに思い込んでしまってる者さえある。何物にも欺かれていないと公言してる君のイソップ[#「イソップ」に傍点]誌の連中のうちにも、愛してもいない芸術を愛してると思い込んでる憐《あわ》れな青年らに、僕は出会った。彼らはうれしくもないのにただ順従の念から酔っ払ってる。そしてその虚偽のうちに倦怠《けんたい》しきっている。」
クリストフは、胎《はら》のすわらない連中の中を、あたかも眠ってる樹木を揺り起こす風のように通りすぎていった。彼は自分の考え方を彼らに教え込もうとはしなかった。自分で考えるだけの元気を彼らに吹き込んでやった。彼はこう言っていた。
「君たちはあまりに謙譲だ。神経衰弱的疑惑こそ大敵なんだ。人は寛容で人間的であり得るしあるべきである。しかし、善であり真であると信じてる事柄を疑ってはいけない。そして信じてる事柄を支持しなければいけない。われわれの力がどのくらいのものであろうと、われわれは譲歩してはならない。この世においては最小のものも最大のものと同等に一つの義務をもっている。そして最小のものもまた――(みずからよく知っていないことであるが)――一つの力をもっているのだ。君たちだけの反抗を取るに足らぬものだと思ってはいけない。強健で自己を肯定し得る本心は一つの威力である。君たちが近年一度ならず見てきたとおりに、国家と世論とは一人のりっぱな男の判断を重んじなければならなかったではないか。しかもその男の武器といっては、公然と執拗《しつよう》に肯定されたその精神力のみだったのだ……。
「もし君たちが、こんなに骨折ってなんの役にたつかを、闘ってなんの役にたつかを、なんの役にたつか[#「なんの役にたつか」に傍点]ということを、みずから怪しむならば……よく覚えておくがいい……それは、フランスが死にかかってるからであり、ヨーロッパが死にかかってるからであり――わが文明が、千年余の苦悩によって人類が築き上げた驚嘆すべき作品が、もしわれわれが闘わなかったならば覆滅する恐れがあるからである。祖国が危険に瀕《ひん》しているのだ。わが祖国ヨーロッパが――なかんずく君たちの小なる祖国フランスが、危険に瀕している。君たちの無情無感がそれを殺すのだ。君たちの元気が消滅するにつれ、君たちの思想が諦《あきら》めにはいるにつれ、君たちの誠意が働きを止めるにつれ、君たちの血が無駄に一滴ずつ涸《か》れてゆくにつれて、祖国は死んでゆくのだ……。奮起したまえ。生きなくてはいけない。もしくは、死ななければならないとすれば、立ちながら死ぬべきである。」
しかし、彼らを活動に導くことよりも、彼らをいっしょに活動させることのほうが、なおいっそう困難だった。この点では彼らはまったく手におえなかった。彼らはたがいに不平を言い合っていた。りっぱな人たちほど頑固《がんこ》だった。クリストフは同じ家の中にその実例を見出した。フェリックス・ヴェール氏と技師エルスベルゼと少佐シャブランとは、暗黙な敵意をたがいにいだいていた。それでも、彼らはその党派や種族の異なった作法のもとにありながら、みな同じものを望んでるのだった。
ヴェール氏と少佐との間には、ことに理解し合える多くの理由があるようだった。ヴェール氏は書物を手放したことがなく精神生活のうちにばかり生きていたので、思想を事とする人々のうちによく見かける一種の矛盾から、軍事上の事柄をたいへん面白がっていた。「われわれはみな断片でできている[#「われわれはみな断片でできている」に傍点]、」と半ばユダヤ人のモンテーニュは、ヴェール氏が属してるような精神上のある種族についてのみ真実であることを、万人に適用して言っている。この知的な老人ヴェール氏は、ナポレオンを崇拝していた。大帝の偉業の花やかな夢想がよみがえってる文書や記念物に取り囲まれていた。この時代の多くのフランス人と同じく、その栄光の太陽の遠い光に眩惑《げんわく》されていた。その戦役をやり直し、戦いを交え、作戦を議していた。オーステルリッツの戦いを説明しワーテルローの戦いを訂正する室内戦略家が、もろもろの学芸院や大学などにはたくさんいるが、彼もその一人だった。彼はそういう「ナポレオン派」をまっ先にあざけって、自分の皮肉をみずから面白がってはいたけれど、それでもなおやはり、遊びにふけってる子供のように、ナポレオンの素敵な話に酔わされていた。ある種の逸話になると眼に涙まで浮かべた。その気弱さに気づくときには、ばかな老耄《おいぼれ》だとみずから叫んで笑いこけた。実を言えば、彼をナポレオン崇拝者たらしめてるものは、その愛国心よりもむしろ、活動にたいする小説的な興味と精神的な愛好とであった。と言っても、彼はりっぱな愛国者であって、生粋《きっすい》のフランス人の多くよりもいっそう深くフランスに愛着していたのである。いったいフランスの反ユダヤ主義者らはフランスに住んでるユダヤ人らのフランス感情を、不当な猜疑《さいぎ》心でくじきながら、よからぬ馬鹿げたことをなしている。けれども、あらゆる家族は一、二代の後になると、定住した土地にかならず執着するものである、という理由をほかにしても、ユダヤ人らは、知性の自由についてもっとも進歩した観念を西欧において代表してるこのフランス民衆を愛すべき、特殊な理由をもっている。彼らは百年来、フランス民族を今日のごとくあらしむるのに貢献し、その自由はある点まで彼らの手になされたものであるだけに、ますます彼らはフランス民族を愛している。なんで彼らが、あらゆる封建的反動の威嚇《いかく》に対抗してその自由を守らないことがあろうぞ。この養い児のフランス人とも言うべきユダヤ人らをフランスに結びつけてる糸を――一群の有害な馬鹿者どもが望んでるように――断ち切ってしまおうとすることは、敵に加担することである。
フランスの浅慮な愛国者らは、フランスに移住してる他国人はすべて隠れたる敵だという新聞紙の説に脅かされて、生まれつき歓待的な精神をもっていながらも、諸民族の会流たるユダヤ民族の豊かな運命を疑い憎み否定せざるを得ないのであるが、シャブラン少佐もその一人だった。それで彼は、二階の借家人と近づきになってもよかったのであるが、やはり未知のままでいるほうがよいと思っていた。ヴェール氏のほうでは、少佐と話を交えることを好んでいたけれど、少佐の国民主義を知っていて、軽い軽
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