B
「あなたは自分で自分に話をしてるんですか。そんなら私にも聞かしてください。」
彼女は彼があまりに好奇《ものずき》だと言った。そしてただ、自分がその話の女主人公ではないということだけを打ち明けた。
彼はそれに驚いた。
「自分でみずからいろんな話をするくらいなら、美化した自分自身の話をして、現実以上の幸福な生活をしてるように夢想するほうが、より自然のことのように思えますが。」
「私にはそんなことはできません。」と彼女は言った。「そんなことをしたら絶望に沈むかもしれません。」
彼女は人に隠してる自分の魂を多少うち明けたので、また顔を赤めた。そして言った。
「それに、庭にいて風にさっと吹かれますと、ほんとにいい心地になります。庭は私には生きてるもののように思われます。そして風が荒くて遠くから吹いて来ますときには、いろんなことを私に語ってくれます。」
クリストフは、彼女が控え目な口をきいてるにもかかわらず、彼女の快活さと活発さとの下に隠されてる、底深い憂鬱《ゆううつ》を見てとった。その活発さも彼女を欺くことはできなかったし、なんの結果をももたらしてはいなかった。彼女はなぜ自分を解放しようとはしなかったか? 活動的な有用な生活にいかにも適しているではなかったか!――しかし彼女は父の愛情を楯《たて》にとっていた。父は彼女を手離したがらなかったのである。クリストフはそれに反対して、強健で元気なその将校は彼女を必要としないこと、ああいう性質の人は一人きりで暮らし得ること、彼女を犠牲にする権利は彼にはないこと、などを言いたてたが無駄《むだ》だった。彼女は父を弁護した。父が無理に自分を引き留めておくのではなくて、自分のほうで父のもとを離れ得ないのだと、孝心深い嘘《うそ》で主張した。――そしてまたそれは、ある程度まではほんとうだった。彼女にとっては、彼女の父にとっては、また周囲の人々にとっては、万事はかくあるべきもので異なったようになるべきではないということが、永久にわたって承認されてるらしかった。彼女には結婚した兄があったが、その兄も、自分の代わりに彼女が献身的に父のめんどうをみてくれるのを、自然のことだと考えていた。そして彼自身は子供たちのことばかりに気を向けていた。彼は子供たちを嫉妬《しっと》深いほど愛していて、何事をも子供たちの自由に任せなかった。その愛情は、彼にとっては、ことに彼の細君にとっては、一生のしかかってきてあらゆる行動を束縛する任意的な鎖だった。人は子供をもったときから、その個人的生活は終わりを告げて、自己の発展は永久に止めらるべきものである、とでも言うかのようだった。この活動的な怜悧なまだ若い男は、隠退するまでに残ってる働くべき年月を、ちゃんと数え上げていた。――それらのりっぱな人々は、家庭的愛情の空気のために貧血させられていた。その愛情はフランスにおいてはいかにも深いものだったが、しかしまた人を窒息させるものだった。フランス人の家庭が父と母と一、二人の子供というふうに、ごく少数になる場合に、それはますます圧迫的になるのだった。あたかも一握りの黄金を握りしめてる吝嗇《りんしょく》家のように、戦々|兢々《きょうきょう》として自分だけを守ってる愛情だった。
ある偶然の事情からクリストフは、セリーヌにますます同情をもつとともに、フランス人の愛情の狭小なこと、生活や自己の権利の主張などを恐れてることを、示されたのであった。
技師のエルスベルゼに、やはり技師である十歳年下の弟があった。世間によく見かけるとおり、りっぱな中流家庭に生まれて芸術上の志望をもってる好青年だった。そういう人々は、芸術をやりたがってはいるが、その中流的身分を危うくすることを欲しない。実を言えば、それはごく困難な問題ではない。現時の多くの芸術家は容易に解決をつけている。でもとにかくそうしたいという願望だけは必要であって、そしてそれだけのわずかな気力をも万人がもってるというわけにはゆかない。彼らには自分の欲することを欲するというだけの確かさもない。そして彼らの中流的身分が確実になればなるほど、ますますそこに安住して従順に静かになってゆく。彼らがくだらない芸術家とならずに善良な中流者となるとしても、それはとがむべきことではないだろう。しかしその失意からは、ひそかな不満の念が、いかに偉大なる芸術家が僕とともに滅びることぞ[#「いかに偉大なる芸術家が僕とともに滅びることぞ」に傍点]が、たいていは彼らのうちに残ってくる。そしてそれは、とにかく哲学と呼ばれ得るものでどうにか覆《おお》い隠されはするが、歳月に磨《す》り減らされ新しい心配事に紛らされてその古い怨恨《えんこん》の痕《あと》が消されてしまうまでは、彼らの生活を毒するのである。アンドレ・エルスベルゼの場合もそうであった。彼は文学をやるつもりだった。しかし自説にのみ凝り固まってる兄は、彼をもやはり科学の方面にはいらせたかった。アンドレは悧発《りはつ》であって、科学に――または文学に――同じくらいかなりの天分をもっていた。芸術家たるには十分の自信がなかったけれど、中流者たるにはあまりに多くの自信があった。で彼は初め一時的に――(この一時的という言葉がいかなる事を意味するかは人の知るとおりである)――兄の意志に従った。彼は大してよくない成績で工芸中央学校にはいり、同じくらいの成績で卒業し、それからは本気でしかしなんの興味ももたずに、技師の職についていた。もとよりその間に、わずかの芸術家的気質をもっていたのをも失ってしまった。で彼はもう皮肉をもってしか芸術のことを語らなかった。
「それにまた、人生というものは、やりそこねた職業のために気をもむにも値しないものです。くだらない詩人なんかあってもなくても同じことです……。」と彼は言っていた。――(クリストフはそういう理屈のなかに、オリヴィエ流の悲観思想を見てとった。)
二人の兄弟は愛し合っていた。彼らは同じ気質をもっていた。しかし話が合わなかった。二人ともドレフュース派であった。しかしアンドレは、産業革命主義にひきつけられて、非軍国主義者であった。そしてエリーは愛国者であった。
アンドレは時とすると、兄に会いに行かずにクリストフだけを訪れてきた。クリストフはそれに驚いた。なぜなら、彼とアンドレとの間には大なる同感は存しなかったから。アンドレはたいていだれかもしくは何事かにたいする不平ばかりを述べた――それはうるさいことだった。そしてクリストフが口をきくときには、アンドレのほうでよく聞いていなかった。それでクリストフはもう、彼から訪問されるのをつまらないと思ってる様子を隠そうとしなかった。しかし彼はそんなことにはいっこう平気だった。気づいてもいないらしかった。がついにある日、クリストフの疑問は解けた。相手が窓にもたれて、こちらの話によりも下の庭の様子に多く気をとられてるのが、彼にもわかった。彼はそれを言ってやった。するとアンドレは、実際シャブラン嬢を知ってることや、クリストフを訪問してくる理由のうちには彼女がはいってることなどを、すぐに承認してしまった。それから舌がほどけて、昔からの友情を、おそらくは友情以上のものを、その若い娘にたいしていだいてることを白状した。エルスベルゼの家は少佐の家と昔から交際があった。しかしごく懇意だったあとに、政治上のことで離れ離れになった。それ以来もう行き来をしなかった。クリストフはそんなことを馬鹿げてると思う様子を隠さなかった。各人各自の考え方をしながらなお尊敬し合ってゆくということが、できないものだろうか? アンドレは、自分は自由な精神をもってると抗弁した。しかし二、三の問題は寛容外のことだと言った。彼によれば、それらの問題について異なった意見をもつのは許されないことだった。そして彼は有名なドレフュース事件をあげた。それについて彼も普通一般のとおりに無茶な論をした。クリストフはその慣例を知っていたし、少しも議論を闘《たたか》わそうとはしなかった。しかしただ、その事件もいつか終わりを告げることがないものかどうか、その呪《のろ》いは孫子の末の末にまで永遠に波及すべきものであるかどうかを、尋ねてみた。アンドレは笑いだした。そしてクリストフに答えはしないで、セリーヌ・シャブランをしみじみとほめたたえ、彼女から献身的に仕えられるのを当然だと思ってる父親の利己心を非難した。
「彼女と愛し愛されてるのなら、なぜ結婚しないんですか。」とクリストフは言った。
アンドレはセリーヌが僧侶《そうりょ》派であることを嘆じた。僧侶《そうりょ》派とはどういうことかとクリストフは尋ねた。その答えによれば僧侶派とは、宗教上の務めを守り神や坊主どもに奉仕するということだった。
「そしてそれがなんの妨げになるんですか。」
「だって僕は自分の妻が自分以外のものに所有されることを望みません。」
「ほう、あなたは細君の思想にまで嫉妬《しっと》するんですか。じゃああの少佐よりもあなたのほうがいっそう利己的だ。」
「それは勝手な理屈です。たとえばあなたは音楽を愛しない女をもらえますか。」
「もらおうとしたこともありますよ。」
「思想が違っててどうしていっしょに暮らせるでしょうか。」
「そんなことをくよくよ考えるには及ばないでしょう。なあに、愛するときには思想なんかどうだって構わない。僕の愛する女が僕と同じく音楽を愛してくれたって、なんの足しになるものですか。僕にとってはその女が音楽なんです。あなたのように、相愛のかわいい娘があるという喜びを得るときには、彼女は彼女の好きなものを信ずるがいいし、あなたはあなたの好きなものを信ずるがいい。要するにどの思想もみな同じく尊いんです。そして世には一つの真理しかありません。それは愛し合うということです。」
「それは詩人の言い草です。あなたは人生を見ていません。精神の不一致に苦しめられた多くの家庭を、僕はたくさん知っています。」
「それは十分愛し合っていなかったからです。人は第一に自分が何を欲してるかを知らなければいけません。」
「人生においては意志がすべてをなし得るものではありません。僕がシャブラン嬢と結婚しようと欲しても、それはできないでしょう。」
「なぜでしょうか。」
アンドレは気がかりな事柄をうち明けた。彼の地位はまだでき上がっていなかった。それに財産もなく、身体も弱かった。そういう事情で結婚していいものかどうか疑っていた。大なる責任問題だ……。愛する者や自分自身を――将来の子供のことは言うまでもなく――不幸に陥《おとしい》れる憂いはないだろうか……。待つほうが――もしくはあきらめるほうが――よくはないか。
クリストフは肩をそびやかした。
「りっぱな愛し方ですね! 彼女に愛があるのなら、彼女は一身をささげて幸福になるはずです。それから子供のことについては、あなたたちフランス人は実際|滑稽《こっけい》ですよ。苦しむことのないほど十分な財産をつけてやれると思うまでは、世の中に産み出したがらない……。がそんなことはどうでもいいことです。なあに、生と生にたいする愛と生を守る勇気とを与えてやればいいんです。その他のことは……生きようと死のうと……それが人の運命です。僥倖《ぎょうこう》の生を求めるくらいなら、生きるのをやめたほうがいいでしょう。」
クリストフから発散する強健な信念は、相手のうちにも伝わっていったが、少しもその心を決しさせはしなかった。彼は言った。
「ええ、おそらくそのとおりでしょう……。」
しかし彼はそのままじっとしていた。あたかも他の多くの人々のように、意欲と行動との不能に陥ってるがようだった。
クリストフは、知り合いのフランス人のうちにたいてい見出される無気力さにたいして、戦いを始めた。その気力は、不撓《ふとう》なそしておおむね熱狂的な精励さと、不思議に結合してるのだった。中流階級の種々の方面で彼が出会う人々は、ほとんどすべて不満家だった。ほとんどすべての人々が、当代の大立者とその腐敗した思想とにた
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