ッ棒を手にしていたまえ……。今夜、天主[#「天主」に傍点]が門前を通られないともかぎらないのだ。」
その夜、天主はごく近くを通りたもうた。その翼の影は家の敷居に触れた。
外観上はつまらないいろんな事件の結果、フランスとドイツとの関係が突然険悪になっていた。そして二、三日のうちに、近隣の誼《よし》みによるふだんの関係から、戦争に先立つ挑発《ちょうはつ》的な調子に変わっていった。この状況に驚く者は、理性が世界を統べるという幻のうちに生きてる人々ばかりだった。しかしそういう人はフランスにたくさんいた。そして多くの人は、ライン彼岸の新聞紙の反フランス的|暴戻《ぼうれい》さが、日に日に盛んとなるのを見て、呆然《ぼうぜん》たるばかりだった。そのうちのある新聞などは、日ごろ両国における愛国心をわが物顔に取り扱い、国民の名によって論説し、あるいは独断であるいは国家とひそかに結託して、取るべき政策を国家に指定していたが、それがみな、侮辱的な最後|通牒《つうちょう》をフランスに送っていた。前からドイツとイギリスとの間にある紛議が起こっていた。そしてドイツは、それに関係しない権利をさえフランスに与えなかった。傲慢《ごうまん》無礼な新聞紙は、ドイツに加担の宣言をすることをフランスに迫り、もしそうしない場合には、戦争の惨禍をまっ先に見さしてやると脅かしていた。威嚇《いかく》によって味方につけるつもりでいた。打ち負かされて甘んじてる臣下としてフランスを前もって取り扱っていた――要するに、オーストリアと同じ取り扱いをしていた。そこに、戦争に酔ってるドイツ帝国主義の傲慢《ごうまん》な狂気|沙汰《ざた》が認められ、また、ドイツの為政家らが他民族をまったく理解し得ないことが認められた。なぜなら彼らは、彼らが法則としてる普通の尺度を、力は最上の道理なりとの説を、あらゆる民族に適用していたのである。ところが、ドイツがかつて知らない光栄とヨーロッパの最上権とを、数世紀の間得ていた古い国民にたいしては、そういう暴戻《ぼうれい》な警告が、ドイツの期待する結果と反対の結果を生じたのは、当然のことである。それはこの国民の眠ってる自尊心を躍《おど》りたたせた。フランスは全身おののいた。もっとも冷淡な人々でさえ怒りの叫びを発した。
ドイツ国民の多数は、そういう挑戦《ちょうせん》に少しも関係するところがなかった。いずれの国においても善良な人々は、平和に暮らすことしか求めない。ことにドイツの善良な人々は、穏和であり懇篤であって、すべての人と仲よくしたがっており、他国人を攻撃するよりもむしろ、他国人を賞賛し模倣しがちである。しかし彼らはその意見を求めらるることもなく、また意見を述べるほど大胆でもない。世間的活動の雄々しい習慣をもっていない人々は、かならずや世間的活動の玩具《がんぐ》となされてしまう。彼らはりっぱなしかも愚かな反響となって、新聞紙の荒々しい叫声や首領の挑発を響き返し、それをもってマルセイエーズ[#「マルセイエーズ」に傍点]やラインの守り[#「ラインの守り」に傍点]を作り出すのである。
それはクリストフとオリヴィエとにとっては恐ろしい打撃だった。二人は愛し合うことに馴《な》れきっていたので、なぜ両国も同様に愛し合わないかが考えられなくなっていた。長く残存していて今突然|眼覚《めざ》めてきたその敵意の理由が、彼らにはわからなかったし、ことにクリストフにはわからなかった。クリストフはドイツ人として、自国民が打ち負かした民族を恨む理由を少しももたなかった。同国人のある者らのたまらない傲慢《ごうまん》さをみずから不快に感じながらも、また、ブルンスウィック的なその強要にたいするフランス人の憤慨にある程度まで賛同しながらも、彼はフランスがどうしてドイツの同盟者になろうとしないかを、よく理解することができなかった。結合すべき理由の多くを、共通な思想の多くを、また共に完成すべき大なる仕事の多くを、両国はもってるように彼には思えたので、両国が無益な怨恨《えんこん》に固執してるのを見ると、不満を感ぜさせられた。すべてのドイツ人と同じく彼も、その不和についておもに罪があるのはフランスだと見なしていた。なぜなら、彼の考えによれば、敗北の思い出がいつまでも拭《ぬぐ》われないのは、フランスにとってつらいことであると認められはするものの、それは単に自尊心の事柄にすぎなくて、文化とフランス自身とのより高き利害の前には、当然消散すべきものであった。かつて彼はアルザス・ローレンの問題に考慮を向けたことがなかった。両州の併合は、数世紀間外国に付属した後にドイツの土地をドイツ祖国内に取りもどしたという、正当行為として考えるように、学校で教わってきたのだった。それで、自分の友がそれを罪悪だと見なしてるのを発見すると、彼はびっくりさせられた。彼はまだその事柄を友と語り合ったことがなかった。それほど彼は二人とも同意見であると思い込んでいた。ところが今や、その誠実と自由な知力とは彼にもよくわかってるオリヴィエが、偉大な民衆はかかる罪悪にたいする復讐《ふくしゅう》を思い切ることもできるけれど、それでは体面を傷つけるわけになるのだということを、熱情もなく憤激もなくただ深い悲しみをもって、彼に言うのであった。
二人は理解し合うのになかなか困難だった。オリヴィエは、ラテンの土地としてアルザスを要求するフランスの権利について、歴史上の理由をもち出したが、それはクリストフになんの印象も与えなかった。その反対を証明する同じくらいに有力な理由も存在していた。およそ歴史というものは、勝手な主張のために必要なあらゆる理論を政治に供給してくれるのである。――けれど、この問題の単にフランス的方面ではなく人間的方面については、クリストフははるかに多く心を打たれた。アルザスの人々はドイツ人であったかなかったか、それは問題とならなかった。彼らはドイツ人たることを欲していなかった。そしてそれこそ重きをなす唯一の事柄だった。「この民衆は俺《おれ》のものだ、なぜなら俺の兄弟だから、」と言う権利をだれがもってるものぞ。もしその兄弟がそのことを否認するならば、たとい非常に不当な否認であろうとも、その不当さはみな、自分を愛させることができなかった者の上に、したがって自分の運命に彼らを結びつけるなんらの権利もない者の上に、落ちかかってくるのである。アルザスの人々は、四十年の間、種々の暴虐を受け、あるいは苛酷《かこく》にあるいは隠密にいじめつけられ、また、ドイツの正確な賢い統治によって実際利するところさえあったがなお、ドイツ人となることを望んでいなかった。そして、彼らの意志が疲れてついに譲歩するに及んでも、数時代の人々の苦しみ――生まれた土地から亡命することを余儀なくされ、もしくは、さらに痛ましいことには、その土地から離れることができずに、そこで忌まわしい覊絆《きはん》を、国が奪われ人民が隷属させられることを、甘受しなければならなかった、数時代の人々の苦しみ、それは何物にも消されることができなかった。
クリストフは、問題のそういう方面をかつて考えてもみなかったことを、率直にうち明けて言った。彼はそのことから心を動かされていた。正直なドイツ人は、いかに真摯《しんし》なラテン人といえどもその熱烈な自尊心のためにもち合わしていないある誠実さを、議論に差し入れてくるものである。クリストフは、歴史の各時代に各国民がなしている同様な罪悪の実例を、あえてもち出そうとは考えなかった。そういう恥ずかしい弁解をなすにはあまりに傲慢《ごうまん》だった。人類が向上すればするほど、その罪悪はますます光明に照らされるゆえにますます嫌悪《けんお》すべきものとなることを、彼は知っていた。しかしながら、もしフランスのほうが勝利を得た暁には、フランスはドイツと同様に勝利のうちに自制することなく、罪悪の鎖になお一個の環を加えるであろうということをも、彼は知っていた。かくて、悲しむべき争闘は永久につづいて、ヨーロッパ文明の最善のものが破滅し終わる恐れがあるだろう。
この間題はクリストフにとって苦しいものではあったが、オリヴィエにとってはさらにいっそう苦しいものだった。それは、もっとも結合しやすい両国民間の兄弟|相鬩《そうげき》的な争闘の悲しみ、というだけではまだ十分でなかった。フランス自身のうちにおいて、国民の一部は他の一部と戦いの用意をしていた。数年来、平和主義的な反軍国主義的な理論が、国民のもっとも高尚な分子ともっとも卑賤《ひせん》な分子とによって宣伝されて、しだいに広がっていた。国家はそれを長い間放任していた。およそ政治家らの利害に直接関係のない事柄はみな、懶惰《らんだ》な道楽趣味から放任しておいたのである。そして、もっとも危険な理論が国民の血脈中に流れ込んで、準備されてる戦争をそこで根絶やそうとしてるのを、打ち捨てておくことよりも、その理論を直截《ちょくせつ》に支持することのほうが、危険の度は少ないだろうということを、少しも考えてはいなかった。その理論は、いっそう正しいいっそう人間的な世界を目ざして協力しながら、親睦《しんぼく》なヨーロッパを打ち建てんと夢想してる、自由な知力の人々に話しかけていた。それからまた、だれのためにもなんのためにもわずかな危険さえ冒したがらない、下劣な人々の卑怯《ひきょう》な利己心へも話しかけていた。――その思想は、オリヴィエや多くの友だちにも伝わっていた。クリストフは家の中で、一、二度、人々の会談を聞いて呆然《ぼうぜん》としてしまった。人のよいモークは、人道主義的な空想でいっぱいになっていて、戦争を防がなければならないことや、それには兵士らを煽動《せんどう》し反抗させ場合によっては指揮官をも銃殺させるのが上策で、きっとうまくゆくに違いないというようなことを、眼を輝かし落ち着き払って言っていた。技師のエリー・エルスベルゼは、もし戦いが始まったら、自分や自分の友人らは、国内の敵を片付けたあとでなければ国境へ進発しないと、冷やかな勢いで答え返していた。アンドレ・エルスベルゼは、モークの味方をしていた。クリストフはある日、二人の兄弟の恐ろしい喧嘩《けんか》に行き合わした。二人はたがいに射殺してやるとおどかしていた。それらの殺害的な言葉は冗談の調子で発せられてはいたが、しかし二人が言ってることはみな実行の決心があることばかりらしかった。クリストフはこの馬鹿げた国民に驚きの眼を見張った。彼らは常に思想のためには殺害し合うことをも辞せない……。まるで狂人だ。合理的な狂人だ。各人が自分の思想だけを見つめて、一歩も乱さずに最後まで進もうとしている。そしておのずからたがいに絶滅し合っている。人道主義者は愛国主義者と戦っている。愛国主義者は人道主義者と戦っている。その間に敵はやって来て、祖国と人道とを一度に粉砕してしまうだろう。
「いったい君たちは、」とクリストフはアンドレ・エルスベルゼに尋ねた、「他の民衆の無産者らと了解がついているのですか。」
「なあに、だれかが始めなければなりません。そのだれかは、われわれであるべきです。われわれはいつもまっ先でした。合図を与えるのはわれわれの役目です。」
「そしてもし他の人々が歩き出さなかったら?」
「いや歩き出します。」
「君たちには契約とか予定の計画とかいうようなものがあるのですか。」
「なんで契約なんかの必要がありましょう。われわれの力はあらゆる外交術よりもまさっています。」
「いやこれは観念上の問題ではなくて、戦略の問題です。もし君たちが戦争を絶やそうと望むならば、戦争からその方法を借りてくるがいいです。両国内での作戦計画をたてるべきです。一定の日にフランスとドイツとで、君たちの連合軍が其々の行動をすると、きめてかかるべきです。その時々の気まぐれな行動ばかりしていては、なんでりっぱな結果が得られよう。こちらにはただ偶然があるきりで、向こうには組織だった巨大な力が存している――その結果はわかりきっています。君た
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