オて相手に弾丸を命中させようなどとは、思ってもいなかった。相手をわけなく片付けるほうがはるかに容易であるのに、さあ射殺するぞという様子ばかりをしてみせるのは、この上もなく馬鹿げたことだと知っていた。しかしクリストフのほうは、上衣をぬぎ捨て、シャツをくつろげて、太い首筋とたくましい拳《こぶし》とを示しながら、額《ひたい》を下げ、レヴィー・クールを見つめ、元気いっぱいになって待ち受けていた。殺害の意志がその顔つきにありありと浮かんでいた。その様子を観察していたブロシュ伯爵は、文明が決闘の危険をできるだけ防止せんとしたのは幸いなことだと、考えていた。
 二つの弾丸が両方から発射されたが、もちろん被害は少しもなかった。介添人らは争って二人の無事を祝した。それで名誉は満足されたわけである。――しかしクリストフは満足しなかった。もう済んだのだとは思わずに、ピストルを手にしたままつっ立っていた。前日射撃場でやったように、弾丸が命中するまで打ち合いたがっていた。相手と握手するようにグージャールから言われると、その茶番狂言が癪《しゃく》にさわった。相手は例のいつに変わらぬ微笑を浮かべて、彼のほうへ堂々と進み出て来た。彼は怒って武器を投げ捨て、グージャールを押しのけて、レヴィー・クールに飛びかかった。人々は一生懸命に骨折ってようやく、彼が拳固《げんこ》でなぐり合おうとするのを止めた。
 介添人らが中に立ってるまに、レヴィー・クールは遠のいていた。クリストフは人々から離れて、その笑い声やとがめる声を耳にもいれずに、大声に口をきき激しい身振りをしながら、森の中をさして大股《おおまた》に歩み去った。そこに上衣と帽子とを置き忘れたことにも気づかなかった。そして森の中へはいり込んでいった。自分の介添人らが笑いながら呼んでるのが聞こえた。がやがて彼らも疲れて、もう彼のことを構わなかった。間もなく馬車の音が遠ざかってゆき、彼らの立ち去ったことがわかった。彼は黙々たる木立の間に一人残った。怒りは静まった。彼は地面に身を投げ出して、草の中に寝そべった。
 それからほどなく、モークがその飲食店にやって来た。朝からクリストフを追っかけ回してるのだった。森の中にクリストフがいることを聞いて捜し始めた。あらゆる茂みを見回り、反響《こだま》を起こして呼ばわり、それから空《むな》しくもどりかけたが、そのとき歌声を聞きつけた。その声のほうへ進んでいってみると、クリストフはある小さな空地に、子牛のように仰向けにひっくり返っていた。クリストフはモークの姿を見ると、快活に声をかけ、「親愛なモロック」と呼び、相手の身体を穴だらけにしてやったと話した。そして、無理に背飛び遊戯の相手をさせ、向こうにも飛ばせ、また自分が飛ぶときには、ぴしりとその背をひどくたたきつけてやった。モークも他愛なく、下手《へた》ではあるが彼と同じくらいに面白がった。――二人は腕を組み合わして飲食店にもどって来、それから近くの駅で汽車に乗ってパリーへ帰った。
 オリヴィエはその出来事を知らなかった。彼はクリストフのやさしい態度に驚かされ、その急な変わり方が腑《ふ》に落ちなかった。翌日になってようやく、クリストフが決闘したことを新聞で知った。クリストフが冒した危険のことを考えると、気持が悪くなるほどだった。彼はその決闘の理由を知りたがった。クリストフは話さなかった。あまりうるさく聞かれて、笑いながら言った。
「君のためにだ。」
 オリヴィエはそれ以上一言も聞き出し得なかった。モークが事情を話してくれた。オリヴィエは駭然《がいぜん》として、コレットと交わりを絶ち、自分の不謹慎を許してくれとクリストフに願った。クリストフは頑《がん》として聴《き》き入れず、二人の友の幸福なさまをうれしげにながめてる人のよいモークが腹をたてるのも構わずに、フランスの古い諺《ことわざ》を勝手に意地悪くもじって誦《しょう》してきかした。
「君、うっかり人を信用するものでないことがわかるだろう……。

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隙《ひま》なお饒舌《しゃべり》娘から、
にせ信心のおべっかユダヤ人から、
うわべばかりの友だちから、
馴《な》れ馴れしい敵《かたき》から、
そして気のぬけた葡萄《ぶどう》酒から、
主よわれらを救いたまえ[#「主よわれらを救いたまえ」に傍点]!」
[#ここで字下げ終わり]

 友情は回復された。危うく友情を失うかもしれない恐れに臨んだために、その友情はいっそう濃《こま》やかになった。つまらぬ誤解は消えてしまった。二人の性格の差異がかえって二人をひきつける種となった。クリストフはその魂のうちに、和合した両国の魂を包み込んだ。彼は自分の心が豊かで充実してるのを感じた。そしてその楽しい豊満は、彼にあってはいつものとおりに音楽の流れとなって現われた。
 オリヴィエはそれに驚嘆させられた。そして過度の批評癖から彼は、自分の愛する音楽はもう窮極に達してるのだと信じがちだった。ある程度の進歩の後には必然に頽廃《たいはい》が来るという、病的な観念にとらえられていた。自分に生を愛さしてくれたその美《うる》わしい芸術が、突然行きづまって涸渇《こかつ》し地面に吸い込まれてしまいはすまいかと、びくびくしていた。クリストフはそういう意気地《いくじ》ない考えを面白がった。そして物に逆らいたい精神から彼は、自分より以前には何一つでき上がったものはなく、すべてがこれからできるのだと言い出した。オリヴィエはフランスの音楽を例にもち出した。フランスの音楽はある完成さと終局の発展との域に達していて、それから先にはもう何もあり得そうにないのだった。クリストフは肩をそびやかした。
「フランスの音楽だって?……フランスには音楽なんかまだありはしない……。だが君たちフランス人は、いろいろりっぱなものを作ることができるはずだ。ただ君たちはあまり音楽家ではないから、作ろうという気をかつて起こさなかったのだ。ああ僕がもしフランス人だったら!」
 そして彼は、フランス人が書き得るすべてのことを列挙してみせた。
「君たちは柄にもない種類のものばかりに気を向けて、自分の才能に適したものは何一つ作っていない。君たちは、優雅と、華美な詩と、身振りや足取りや態度や流行や服装などの美とをもってる、民衆である。そして、詩的舞踏の比類ない一芸術を創《つく》り得たはずなのに、もう今では舞踊劇《バレー》を書く者がいない……。――君たちは、知的な笑いをもってる民衆である。それなのに、もう喜歌劇を作りもしないし、または喜歌劇を、音楽以下の者どもの手に委《ゆだ》ねてる。ああ僕がもしフランス人だったら、僕はラブレーのものを音楽にし、滑稽《こっけい》叙事詩を作ってやるんだが……。――君たちは小説家的民衆である。それなのに、物語音楽を作っていない(というのは、ギュスターヴ・シャルパンティエの通俗物なんかは、物語音楽とは言えないから)。君たちは心理解剖の天分や性格|洞察《どうさつ》力などを利用していない。ああ僕がもしフランス人だったら、僕は音楽で性格描写をやってみせるんだが……(下の庭のリラの花陰にすわってるあの少女を描いてみせようかね。)弦楽四重奏曲でスタンダールみたいなものを書いてやるんだが……。――君たちはヨーロッパのもっともすぐれた民主的な人々である。それなのに、民衆劇ももたなければ、民衆音楽ももっていない。ああ僕がもしフランス人だったら、あの大革命を、一七八九年七月十四日、一七九二年八月十日、ヴァルミーの戦い、武装団結《フェデラシオン》、などを音楽にし、民衆を音楽にしてやるんだが。それも、ワグナー流の法螺《ほら》を事とする誤った種類のものでではない。交響曲《シンフォニー》や合唱《コーラス》や舞踊《ダンス》なのだ。演説はいけない。演説には飽き飽きだ。無言なるかな! 火と土と水と輝いた空とを、人の心を脹《ふく》らす熱を、民族の本能的な運命的な伸長力を、幾百万の人を従属させ軍勢を死へ突進せしむる、世界の帝王たる律動《リズム》の勝利を、合唱を伴う広い交響曲《シンフォニー》に、広漠《こうばく》たる音楽の風景画に、ホメロス式な聖書《バイブル》式な叙事詩に、太い筆致で描き出すのだ……。至る所に、すべてのものに、音楽を置くのだ。もし君たちが音楽家だったら、君たちは社会的祝祭のそれぞれに、公式の盛典に、労働組合に、学生連合に、家庭的な祝いに、音楽をもつだろう……。しかしまず何よりも、もし君たちが音楽家だったら、君たちは純粋な音楽を、何物をも意味しない音楽を、何物にも役だたずにただ、人を温《あたた》め息づかせ生かすだけの音楽を、作り出すだろう。太陽の光を作るべしだ! サート・プラタ……(牧場は十分に……雨を得たり)……(なんで君はそれをラテン語で言いたがるんだ?)……実際君たちのうちにはかなり雨が多い。君たちの音楽に浸ると僕は風邪《かぜ》をひきそうだ。よく見えないから、ランプをつけたまえ……。君たちの劇場に侵入し、君たちの公衆を征服し、君たちを自宅から追い出してる、あのいわゆるイタリーの豚小屋[#「豚小屋」に傍点]を、君たちは現在不満に思ってるじゃないか。だがそれは君たちのほうが悪いのだ。公衆は、君たちの黄昏《たそがれ》の芸術に、調子のよい神経衰弱に、対位法的な衒学《げんがく》趣味に、飽いてしまってるのだ。生活が野卑なものであろうとなかろうと、公衆は生活のあるほうへ行くものだ。なぜ君たちは生活から引退してるのか。君たちのドビュッシーは偉い芸術家だが、しかし健康にはよくない。彼は君たちの無気力を助長している。君たちは手荒く揺り覚まされなければいけない。」
「ではシュトラウスをきけというのか。」
「それもいけない。君たちを破滅させるばかりだ。そんな不養生な物を飲み込んでもちこたえるには、僕たちドイツ人みたいな胃袋をもっていなくちゃいけない。でもドイツ人でさえ実はもちこたえ得ないんだ……。シュトラウスのサロメ[#「サロメ」に傍点]……傑作だ……けれど僕はそれが書かれたことを好まない……。僕は憐《あわ》れな老祖父や叔父《おじ》ゴットフリートのことを思い出す。彼らはいかに深い尊敬としみじみとした愛情とで、この音響の逸品たるサロメ[#「サロメ」に傍点]のことを僕に話してきかしたろう!……ああいう崇高な力を自由に駆使し、しかもあんなふうに使用するとは!……それは炎を発してる流星だ! ユダヤの娼婦《しょうふ》たるイゾルデ姫だ。痛ましい獣的な淫乱《いんらん》だ。ドイツの頽廃《たいはい》の底に唸《うな》ってる、殺害や強姦《ごうかん》や不倫や犯罪などの熱狂だ……。そして、君たちのほうには、フランスの頽廃のうちに呻《うめ》いてる、逸楽的な自殺の発作がある……。一方は獣、そして一方は餌食《えじき》。それで人間はどこにいるのだ?……君たちのドビュッシーは良趣味の天才であり、シュトラウスは悪趣味の天才である。前者は無味乾燥であり、後者は不愉快である。一方は、銀色の池であって、葦《あし》の中に隠れ、熱気ある匂《にお》いを発散さしている。一方は、泥《どろ》立った急湍《きゅうたん》であって、……末期イタリー趣味と新マイエルベール式との匂いがあり、感情の醜悪な塵芥《じんかい》がその泡《あわ》の下に流れている……。嫌悪《けんお》すべき傑作だ。イゾルデの生み出したサロメだ。……そしてこんどはサロメから、何者が生まれるかわかったものではない。」
「そうだ、」とオリヴィエは言った、「半世紀ほど前進したいものだ。こういうふうに深淵《しんえん》に向かって突進することは、どうにかしてやめなければいけないだろう。あるいは馬が立ち止まるか倒れるかしてもいい。そのときになってわれわれは息がつけるだろう。ありがたいことには、音楽があってもなくても、やはり地には花が咲くだろう。こんな非人間的な芸術になんの用があるのだ!……西欧は燃えつきてる……がやがて……やがて……いや僕にはもうすでに、立ちのぼってくる他の光明が見える、東方の彼方《かなた》に。」
「君の東方諸国のこと
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