ト、ルーサンの白シャツの大きな胸部を眼の前にし、その光ったボタンを数えていた。そしてそのでっぷりした男の息を顔の上に感じていた。
「ええ、君、ええ、どうしたんだ?」とルーサンは言っていた。「なんとしたことだ? 反省してみたまえ。ここをどこだと思う? おい、気でも狂ったのか。」
「あなたの家へなんか、もう二度と足踏みはしない!」とクリストフは言いながら、向こうの両手を振り払った。そして扉へ進んでいった。
 人々は用心して道を開いていた。着物置場で、一人の召使が彼に盆を差し出した。その上にはリュシアン・レヴィー・クールの名刺がのっていた。彼は訳がわからずにそれを取り上げて声高に読んだ。それからいきなり、激怒の息を吐きながらポケットの中を探った。五つ六ついろんな物を取り出したあとで、三、四枚の皺《しわ》くちゃな汚《きたな》い名刺を引き出した。
「そら、そら!」と言いながら彼は、それらの名刺を盆の上に激しくたたきつけたので、一枚は下にはね落ちてしまった。
 彼は出て行った。

 オリヴィエは何にも知らないでいた。クリストフは介添人として、手当たり次第に選んだ。音楽批評家のテオフィル・グージャールと、スイスのある大学の私任教授でドイツ人であるバールト博士とだった。彼はこのバールトに、ある晩|麦酒店《ビヤホール》で出会ってそれから知り合いになったのだった。彼は相手にたいしてあまり同情はいだかなかったが、しかし二人いっしょになって故国のことを話すことができるのだった。リュシアン・レヴィー・クールの介添人らと相談のうえ、武器はピストルにきめられた。クリストフはいかなる武器の使い方も知らなかった。それでグージャールは、いっしょに射撃場へ行って少しは稽古《けいこ》しとくのも悪くなかろうと言った。がクリストフは断わった。そして翌日を待ちながら、仕事にかかった。
 しかし彼の精神はよそにあった。悪夢の中でのように、漠然《ばくぜん》としたしかも固定してるある観念の唸《うな》り声が耳に響いていた……。「不愉快なことだ、そうだ、不愉快なことだ……どうしたというのだ? ああ、明日がその決闘……冗談だ!……けっしてあたるものか……だがあたるかもしれない……あたったら? あたる、そう、あたったら?……彼奴《あいつ》の指がちょっとしまると、それで俺《おれ》の生命がなくなる……すると……そうだ、明日は、今から二日たつと、俺はこのパリーの汚い土地の中に横たわってるかもしれない……なあに、どこだって同じわけさ!……ところで、卑怯《ひきょう》な真似《まね》をする?……いやするものか。しかし、俺のうちに生長してる多くの思想をみな、くだらないことに失ってしまうのは、名誉なことじゃない……。現今の決闘ほど厭《いや》なものはない。相手二人の運命を平等だとしてやがる。馬鹿者の生命と俺の生命とを同じ価値だとするなんて、なんという平等さだ! 拳固《げんこ》と棒とで戦うんだったら! それこそ素敵だ。だがこの冷やかな射撃では!……そしてもとより彼奴は打ち方を知ってる、が俺はピストルを手にしたことさえない……。皆の言うのは道理だ。稽古しなくちゃいけない……。彼奴は俺を殺すつもりだろう。なあに、俺のほうで彼奴《あいつ》を殺してやる。」
 彼は降りて行った。近くに射的場があった。彼はピストルを一つかりて、その使い方を説明してもらった。最初の一発は、危うく主人を打ち殺すところだった。彼はつづいて二度三度とやってみたが、少しもうまくならなかった。焦《じ》れだしてきた。それがなおいけなかった。あたりには、数人の青年が見物して笑っていた。彼はそれに気も止めなかった。人の嘲《あざけ》りなどは平気でただ上達したい一心でやりつづけた。それでいつもあるとおりに、そのへまな根気強さはやがて人々の同情をひいた。見物の一人がいろいろ助言してくれた。彼はいつもの乱暴さに似ず、子供のようにおとなしく耳を傾けた。神経を押えつけて手を震わせまいとした。眉根《まゆね》を寄せて堅くなった。汗は両の頬《ほお》に流れた。一言も口をきかなかった。しかしときどき、癇癪《かんしゃく》を起こして飛び上がった。それからまた打ち始めた。二時間もつづけた。二時間後に的に中《あた》った。その思うままにならぬ身体を制御しようとしてる意力ほど、人の心をひくものはなかった。それは人に敬意を起こさした。初めに笑ってた人々も、ある者は立去ったが、ある者はしだいに口をつぐんでしまい、見物をやめることができかねた。クリストフが立ち去るときには、皆親しく挨拶《あいさつ》をした。
 クリストフが家に帰ってみると、親切なモークが心配して彼を待っていた。モークは喧嘩《けんか》のことを聞いて駆けつけて来たのだった。喧嘩の原因を知りたがっていた。クリストフはオリヴィエをとがめたくなかったので、はっきり言ってきかせなかったが、モークはついにそれを察した。彼は冷静であり二人の友人の人柄を知っていたので、オリヴィエが負わせられてるちょっとした背信の行為というのは事実無根であることを、少しも疑わなかった。そして事の起こりを調べにかかって、その間違いはコレットとレヴィー・クールとの饒舌《じょうぜつ》から来たものであることを、わけなく発見してしまった。彼は大急ぎでもどって来て、それをクリストフに証明した。それで決闘をやめさせるつもりだった。しかし結果は反対だった。クリストフは、レヴィー・クールのせいで友に疑いをかけたのだと知ると、ますますレヴィー・クールにたいして憤った。そして、決闘するなとしきりにモークが頼むので、その厄介《やっかい》払いをするために、なんでも言うとおりになると約束した。しかし決心を固めていた。こうなるとまったく愉快だった。決闘するのはオリヴィエのためにだった。もう自分のためにではなかった。

 馬車が森の中の径《みち》を進んでいるうちに、介添人の一人が発した言葉は、突然クリストフの注意を呼び起こした。彼は介添人らが考えてることを読み取ろうとつとめた。そして、彼らがいかに自分にたいして無関心でいるかを知った。バールト教授は、何時ごろこの片がつくかを考え、国民文庫[#「国民文庫」に傍点]の原稿のために始めていた仕事をその日のうちに終えられるくらいに、家に帰れるかどうかと考えていた。それでもクリストフの三人の連れのうちでは、ゲルマンの自負心から決闘の結果をもっとも気づかってる人だった。グージャールのほうは、クリストフのこともも一人のドイツ人のことも念頭に置かずに、猥褻《わいせつ》心理の露骨な問題について医者のジュリアンと話していた。このジュリアンは、トゥールーズ生まれの若い医者で、最近クリストフと同階の隣人となり、ときどきアルコールランプや雨傘《あまがさ》やコーヒー皿《ざら》などを借りに来ては、いつもこわして返すのだった。その代わりには無料で診察をしてやり、いろいろの薬剤をすすめ、そして彼の率直な性質を面白がっていた。スペインの貴族みたいなその冷静さの下には、絶えざる嘲弄《ちょうろう》が潜んでいた。彼はこの決闘事件をひどく面白がり、それを道化じみたものと思っていた。そして前もって、クリストフの無器用さを当てにしていた。人のよいクラフトの金で森の中を馬車で散歩するなどとは、愉快なことだと思っていた。――そしてそれは明らかに、また三人一様の考えだった。彼らはこの事件を、費用のかからない遊山《ゆさん》だと見なしていた。だれも決闘に重きをおいてはしなかった。それにまた皆落ち着き払って、あらゆる不慮の出来事をも覚悟していた。
 彼らは相手方よりも先に約束の場所へ到着した。それは森の奥の小さな飲食店だった。パリー人らがその名誉を洗い清めに来る、やや不潔な遊び場所だった。生籬《いけがき》には清い野薔薇《のばら》が花を開いていた。青銅色の葉をつけてる樫《かし》の木立の陰に、小さなテーブルが設けられていた。三人の自転車乗りがその一つに陣取っていた。一人は白粉をぬりたてた女で、半ズボンに黒い半|靴下《くつした》をはいていた。他の二人はフランネルの服をつけた男で、暑さにうんざりして、言葉を忘れたかのようにときどき唸《うな》り声を出していた。
 馬車がついたのでその飲食店はちょっとこたごたした。グージャールはずっと以前からその家と人々とを知っていたので、自分がすべて引き受けると言った。バールトはクリストフを青葉|棚《だな》の下へ引っ張っていって、ビールを命じた。空気は気持よく暖まっていて、蜜蜂《みつばち》の羽音が響いていた。クリストフは何しに来たのか忘れていた。バールトはビールを一本|空《から》にしながら、ちょっと沈黙のあとに言った。
「僕は仕事の予定をたててみた。」
 彼は一杯飲んで言いつづけた。
「まだ時間があるだろうから、済んだあとでヴェルサイユに行くつもりだ。」
 グージャールが主婦《かみ》さん相手に決闘場所の借り賃を値切ってる声が聞こえていた。ジュリアンは時間を無駄《むだ》に費やしてはいなかった。自転車乗りたちのそばを通りすがりに、女の裸の脛《すね》を騒々しくほめたてた。それにつづいて卑猥《ひわい》な言葉が一時に落ちかかってきたが、彼も負けてはいなかった。バールトは小声で言った。
「フランス人て実に穢《けが》らわしい奴らだ。君、僕は君の勝利を祈って飲むよ。」
 彼はクリストフのコップに自分のコップをかち合わした。クリストフは夢想にふけっていた。音楽の断片が虫の調子よい羽音とともに頭に浮かんでいた。眠たくなっていた。
 他の馬車の車輪が径《みち》の砂に音をたててきた。いつものように微笑《ほほえ》んでるリュシアン・レヴィー・クールの蒼白《あおじろ》い顔を、クリストフは認めた。そして憤怒の念が眼覚《めざ》めた。彼は立ち上がった。バールトがあとからついて来た。
 レヴィー・クールは大きな襟《えり》飾りを首にまきつけ、ごく念入りの服装をしていた。その様子は相手クリストフの無頓着《むとんじゃく》な様子と、いちじるしい対照をなしていた。彼のあとから降りて来たのは第一にブロシュ伯爵で、多くの情婦や、古い聖体|盒《ごう》の蒐集《しゅうしゅう》や、過激王党主義の意見などで、世に知られてる戸外運動家だった。――つぎには、レオン・ムーエーというやはり流行児で、文学方面から代議士となり、政治上の野心によって文学に従事していて、年若く、頭は禿《は》げ、髯《ひげ》を生《は》やさず、蒼白い怒《おこ》りっぽい顔つき、長い鼻、丸い眼、鳥のような格好の頭をしていた。――最後には、エマニュエルという医者で、ごくすっきりしたセム人型の親切な同時に冷淡な男であって、医学院の会員であり、ある病院の長であって、学者的な著書や医学上の懐疑説などで有名となり、その懐疑説のあまりにいつも、病人の愚痴を皮肉な憐憫《れんびん》の念で聞くばかりで、病気をなおしてやろうとは少しもしないのだった。
 その新来の人たちは丁寧な挨拶《あいさつ》をした。クリストフはろくに答礼もしなかった。そして自分の介添人らがせかせかしたり、レヴィー・クールの介添人らにひどく慇懃《いんぎん》な態度を示したりしてるのを、不満の念で見てとった。ジュリアンはエマニュエルを知っており、グージャールはムーエーを知っていた。二人はにこやかな阿諛《あゆ》的な様子で近寄っていった。ムーエーはそれを冷やかな丁寧さで迎え、エマニュエルは嘲《あざけ》り気味の無遠慮さで迎えた。ブロシュ伯爵のほうは、レヴィー・クールのそばに残っていて、じろりと一目で相手方の上着下着を評価し、そしてレヴィー・クールと、短いおどけた意見をほとんど口を結んだまま言いかわしていた。――二人とも落ち着き払ってきちんとしていた。
 レヴィー・クールは、決闘の指揮をとってるブロシュ伯爵の合図を、泰然として待っていた。彼はその事件を単なる形式だと考えていた。彼は射撃に長じていたし、相手の無器用さを十分知っていたので、介添人らがこの決闘は無事にすむものと気にもかけないでいる場合なのにかかわらず、自分の得手を利用
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