ス。クリストフはコレットとは反対に、他人が世の苦しみを多くになっておればになっておるほどますます好きだった。そして彼は親愛な同情の念で他人に結ばれる心地がした。
 コレットは、オリヴィエとクリストフとの交誼《こうぎ》を知って以来、ことにオリヴィエに再会したがっていた。なぜならその細かな点を知りたかったから。クリストフが一種の軽蔑《けいべつ》的な態度で彼女を忘れはてたらしいことについて、彼女は多少の恨みを含んでいた。そして別に意趣晴らしをするつもりではなしに――(わざわざ意趣晴らしをするほどの事柄ではなかった)――何か悪戯《いたずら》をしてやりたかった。猫《ねこ》のようにちょっと引っかいてやって、注意をひいてみたかった。彼女は人を口車にのせることが巧みだったから、わけなくオリヴィエに口を開かせてしまった。オリヴィエは、人から遠く離れてるときには、もっとも洞察《どうさつ》の明があってもっとも欺かれなかった。しかしやさしい両の眼の前に出ると、率直な信頼さをもっとも多く見せるのだった。彼とクリストフとの友情にコレットがいかにも誠実そうな同情を示したので、彼はうっかりその友情の物語をして、些細《ささい》な睦《むつま》じい誤解などをもいくらか話した。その誤解も遠くからながめるとかえって愉快な気がしたし、また彼はすべて自分のほうが悪いのだとしていた。彼はまた、クリストフの芸術上の抱負や、フランスおよびフランス人にたいするクリストフの批判――それは賞賛的なものばかりではなかった――の多少を、コレットにもらした。それらのことはみな、それ自身では大したことではなかったが、コレットはそれを勝手に案配し、しかもクリストフにたいする一種のひそかな意地悪をもってしただけに、なおさら人の気をひく話となして、すぐさま方々へ流布した。第一にその内密話《ないしょばなし》を聞いたのは、彼女の腰|巾着《ぎんちゃく》たるリュシアン・レヴィー・クールだった。そしてレヴィー・クールは、それを秘密にしておく理由を少しももたなかった。でその話は、途中でますます面白いものとなって四方へ広がった。オリヴィエが犠牲者ということになって、オリヴィエにたいする皮肉なやや侮辱的な憐憫《れんびん》の調子を帯びてきた。本来ならばその話は、二人の主人公がほとんど世に知られていない人物だったから、だれにもさほど興味あるものとはなりそうになかった。しかしパリー人というものは、自分と無関係なことにいつまでも興味をもつものである。そしてついにその秘密は、ルーサン夫人の口からクリストフ自身の耳にまで伝わった。夫人はある日音楽会で彼に出会って、あのオリヴィエ・ジャンナンと喧嘩《けんか》したのはほんとうかと尋ねた。そして、彼とオリヴィエ以外には知ってる者がないはずの事柄にそれとなく言及して、仕事のことを尋ねた。だれからそんな詳しいことを聞いたのかと尋ねられて、リュシアン・レヴィー・クールから聞いたのであり、レヴィー・クールはオリヴィエから聞いたそうであると、彼女は答えた。
 クリストフはそれに参ってしまった。激烈で批評眼のない彼には、その噂《うわさ》がほんとうらしくないことを取り上げる考えは起こらなかった。彼はただ一つのことしか見なかった。オリヴィエに打ち明けたその秘密が、リュシアン・レヴィー・クールにもらされたのだ! 彼は音楽会にじっと残ってることができなかった。すぐに席を立った。周囲には空虚しか感ぜられなかった。彼はみずから言っていた、「友に裏切られた!……」
 オリヴィエはコレットのもとへ行っていた。クリストフは自分の室の扉《とびら》に鍵《かぎ》をかけて、オリヴィエがいつものとおり帰ってきて少し話をしようとしても、それができないようにした。しばらくすると果たして、オリヴィエが帰って来、扉を開こうとし、鍵のかかってる向こうから挨拶《あいさつ》の言葉をささやいてるのが、聞こえてきた。しかし彼は身動きもしなかった。寝床の上に暗闇《くらやみ》の中にすわり、頭を両手でかかえて繰り返していた、「友に裏切られた!……」そしてそのまま、夜中までじっとしていた。すると、いかにオリヴィエを愛してるかを感じてきた。裏切られたことを恨んでるのではなく、ただ一人苦しんでるのだった。愛せられる者のほうには、あらゆる権利がある。もはや相手を愛さないという権利さえある。人はそれを彼に恨むことはできない。彼から見捨てられて、自分がほとんど彼の愛を受くるにも足りないということを、みずから恨むだけのことである。それこそ致命的な苦しみである。
 翌朝、クリストフはオリヴィエに会っても、なんとも言わなかった。オリヴィエを非難することは――信頼に乗じて秘密を敵へ餌《えさ》として投げ与えた、と非難することは――いかにも厭《いや》な気がして、一言も口に出し得なかった。しかし彼の顔つきが彼に代わって口をきいていた。敵意を含んだ冷酷な顔つきだった。オリヴィエはそれに驚かされた。しかし少しも理由がわからなかった。クリストフが何を根にもっているのか、彼は恐る恐る知ろうと試みた。がクリストフは返辞もせずに、素気《そっけ》なく顔をそむけてしまった。オリヴィエのほうでも気にさわって、口をつぐみ、黙然として心を痛めた。二人はもうその日一日顔を合わせなかった。
 クリストフは、オリヴィエからたといその千倍もの苦しみを与えられたとしても、けっして意趣晴らしをすることはできなかったろうし、ほとんど身を守ることさえできなかったろう。彼にとってオリヴィエは神聖なものであった。しかし彼は憤慨の念に駆られたあまり、だれかにぶつかって思いを晴らさなければならなかった。そして、オリヴィエがその的《まと》となり得なかったので、リュシアン・レヴィー・クールが的となった。彼はいつも不公平と激情とのために、オリヴィエが犯したはずの罪過の責任を、レヴィー・クールにもっていった。レヴィー・クールのような奴《やつ》から、昔はコレット・ストゥヴァンの友情を奪われたうえに、こんどは友の愛情を奪われたかと思うと、堪えがたい嫉妬《しっと》の苦しみを感じた。そしてさらに彼を激昂《げっこう》さしたことには、ちょうどその日、フィデリオ[#「フィデリオ」に傍点]上演についてのレヴィー・クールの論説が眼にはいった。レヴィー・クールはその論説中で、ベートーヴェンのことを嘲弄《ちょうろう》の調子で述べたて、その女主人公をモンティオン賞のためにうまくひやかしていた。クリストフは、その作品の滑稽《こっけい》な点や音楽のある誤謬《ごびゅう》をさえ、だれよりもよく見て取っていた。彼は自身ではいつも、知名の大家にたいして大袈裟《おおげさ》な尊敬を示しはしなかった。しかし、常に自説を固執することやフランス流の論理などを、少しも鼻にかけてはいなかった。彼は元来、自分の好きな人の欠点も指摘しはするが、他人にはそうすることを許さなかった。そのうえ、大芸術家を批評するのに、クリストフのようにいかに辛辣《しんらつ》であろうとも、芸術上の熱烈な信念をもってし、また――(あえて言い得べくんば)――その人のうちに凡庸さを許し得ないほど、その栄誉にたいする一図な愛情をもってすること――もしくは、リュシアン・レヴィー・クールがしているように、偉人を貶《けな》して公衆の下劣さに媚《こ》び愚衆を笑わすることだけを、その批評の眼目とすること、その両者はまったく別事であった。つぎに、クリストフはいかにも自由な批判を事としてはいたが、常にある種の音楽にたいしては、それを黙って別な場所に安置し、けっして手を触れなかった。それは、いわゆる音楽よりもより高きより善き音楽であり、慰藉《いしゃ》と力と希望とを汲《く》み出し得る偉大な有益な魂そのものであった。ベートーヴェンの音楽はそういうものだった。それがある下司《げす》野郎から侮辱されてるのを見ると、彼は我を忘れて激昂《げっこう》した。もはや芸術上の問題ではなく、名誉の問題だった。すべて生に価値を与えるもの、愛、侠勇《きょうゆう》、熱烈な徳操、などがみな含まれていた。それが害されるのは、愛慕せる女の侮辱を聞くのと同様に、許し得られないことだった。憎悪し屠殺《とさつ》するのほかはなかった……。ましてその侮辱者は、クリストフがだれよりももっとも軽蔑《けいべつ》してる男ではなかったか! そして偶然にも、その晩に、二人は顔を合わした。

 オリヴィエと二人きりにならないために、クリストフは珍しくも、ルーサン家の夜会に行ったのだった。すると演奏を求められて、心ならずも承知した。それでもやがて、自分のひいてる楽曲の中に我を忘れた。そしてふと眼をあげたとき、数歩先に、一団の人々の中に、こちらを見守ってるリュシアン・レヴィー・クールの皮肉な眼を認めた。彼はある小節の最中にぴたりとひきやめ、立ち上がって、ピアノに背を向けた。人々は当惑してひっそりとなった。ルーサン夫人はびっくりして、強《し》いて微笑を浮かべながら、クリストフのところへやって来た。そして用心深く――その楽曲のまだ終わっていないことがはっきりわからなかったので――彼に尋ねた。
「つづけておやりになりませんか、クラフトさん。」
「もう済みました。」と彼は冷やかに答えた。
 そう言ってしまうや否や彼は自分の無作法に気づいた。しかしそのために慎み深くなるどころか、かえってますますいらだった。聴衆の嘲《あざけ》り気味な注目には気も止めずに彼は、リュシアン・レヴィー・クールの挙動が見守れる片隅《かたすみ》に行ってすわった。隣席には、赤いぼんやりした顔をし、薄青い眼をもち、子供らしい表情を浮かべてる、ある老将軍がすわっていた。なんとかお世辞を言わなければならないと思ってか、彼の楽曲の独創的なことをほめた。クリストフは不快を感じてただ辞儀をし、訳のわからない言葉をつぶやいた。将軍は無意味なやさしい微笑を浮かべながら、極端に丁寧な調子で話しつづけた。そして、あんなに長い音楽をどうしてそらでひけるか、それを説明してもらいたがった。クリストフはその好々爺《こうこうや》を長|椅子《いす》からなぐり落としてやろうかとも考えた。彼はリュシアン・レヴィー・クールがなんと言ってるか聞きたがっていた。攻撃の口実をねらいすましていた。少し前から、自分が何か馬鹿げたことをしでかしそうな気持になっていた。どうしても馬鹿げたことをするに違いない気がした。――リュシアン・レヴィー・クールは、一団の婦人達を相手に、例のわざとらしい声で、大芸術家らの意図やその内心の思想などを、説明してきかしていた。ちょっとあたりがひっそりとなった合い間にクリストフは、彼がワグナーとルードウィッヒ王との友情について、言葉の裏に醜関係をにおわせながら話してるのを、それと聞き取った。
「もうたくさんだ!」と彼はそばのテーブルを拳固《げんこ》でたたきながら叫んだ。
 人々は呆気《あっけ》に取られて振り向いた。リュシアン・レヴィー・クールはクリストフの眼つきに出会い、軽く蒼《あお》ざめて言った。
「君は僕に向かって言ってるのか。」
「君にだ、恥知らずめ!」とクリストフは言った。
 彼はむっくと立ち上がった。
「世の中のりっぱなものを、君はなんでも汚そうとするんだな。」と彼は猛然と言いつづけた。「出て行け、馬鹿野郎、窓から放り出すぞ!」
 彼は進み寄っていった。婦人たちはちょっと声をたてて遠のいた。少し騒ぎとなった。クリストフはすぐ人に取り巻かれた。リュシアン・レヴィー・クールは半ば腰を浮かしていた。それからまた肱掛椅子《ひじかけいす》に事もなげにすわった。通りかかりの召使を小声に呼んで、一枚の名刺を渡した。そして、何事も起こらなかったかのように話をつづけた。しかしその眼瞼《まぶた》は神経質にまたたき、ちらちら横目で見やって、人々の様子をうかがっていた。ルーサンはクリストフの前に立ちふさがっていたが、その上衣の襟《えり》をとらえて、彼を扉《とびら》のほうへ連れて行った。クリストフは憤怒《ふんぬ》と恥とでいっぱいになり、頭をたれ
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