支持すれば、彼は反対のほうを支持した。ついには彼自身がその矛盾のうちに迷い込んでしまった。そしてなおいっそうクリストフを途方にくれさした。けれども、人に反対したいという欲求や矛盾を好む傾向が、彼のうちにあるのではなかった。正理や良識を求むるところから必然に来たものだった。彼はあらゆる偏執の愚昧《ぐまい》さに不快を感じ、それに反抗しずにはいられなかった。クリストフがすべてを実際以上に誇張して、不道徳な行為や人物を批判する生《なま》なやり方は、オリヴィエには不愉快だった。オリヴィエも同じく純粋ではあったが、同じ一徹な鋼鉄からできてはいなくて、外部の影響にそそられ染められ動かされた。彼はクリストフの誇張に抗言し、そして反対の方面へ誇張した。彼はいつもそういう精神の癖から、味方に反対して敵の主張を支持しがちだった。クリストフは腹をたてた。彼はオリヴィエにその詭弁《きべん》と寛容を非難した。オリヴィエは微笑した。その寛容は空《うつろ》な幻をまとってるものでないことを、よく知っていた。クリストフのほうがはるかに多くのことを信じており、それをよりよく受け入れてることを、彼はよく知っていた。ただクリストフは、左右を顧みず猪突《ちょとつ》していた。パリー人の「温情」をことにいらだっていた。
「パリー人らがあんなに自慢そうに大議論をして、悪人どもを『容赦』しようとするのは、それは、」と彼は言った、「悪人どもはすでに悪人となるほど不幸であり、もしくは、彼ら自身には責任がないのである、と考えての上のことだ……。しかし、第一に、悪をなす者どもが不幸であるとは真実でない。そんなのは、芝居の上の道徳観念であり、幼稚な通俗劇の観念であり、スクリーブやカプュスの作品中に陳列されてるのと同様のばかげた楽天的観念である――(君らのパリーの偉人たるスクリーブやカプュスこそ、享楽的で偽善的で幼稚で自分の醜を正視し得ないほど卑怯《ひきょう》な君らの中流社会に、ちょうどふさわしい芸術家だ。)――悪人たる者はよく幸福な人間になり得るのだ。幸福な人間になるべき機縁をもっとも多くそなえていさえする。そして悪人に責任がないということ、それもまた馬鹿げたことだ。自然は善と悪とに無関心であるから、またしたがって邪悪でさえもあり得るから、人はよく罪深くあるとともに完全に健全であり得るということを、認めるだけの勇気をもつがいい。美徳は自然的な事柄ではない。それは人間がこしらえ出したものだ。でそれを保護しなければいけない。人間の社会は、他の者よりも強い偉大な少数の人によって建てられたのだ。その雄壮な製作物を犬みたいな心を持った賤民《せんみん》どもから害されないようにすることこそ、人間の務めである。」
 そういう思想は、要するに、オリヴィエの思想と大して異なってはいなかった。しかしオリヴィエは、平衡を欲するひそかな本能よりして、もっとも享楽的な気持で戦闘的な言葉を聞き流した。
「そうやきもきするなよ。」と彼はクリストフに言った。「世界をして死ぬがままにさしておくがいい。デカメロンの仲間のように、思想の花園の香ばしい空気を平和に呼吸しようよ。薔薇《ばら》の花でとりまかれた糸杉の丘の周囲では、フロレンスの町が黒死病《ペスト》に荒らされていたって、構わないじゃないか。」
 彼はその幾日もの間、芸術や学問や思想などの隠れた機械装置を探るために、それを分解して面白がっていた。そのためにいつしか懐疑癖に陥ってしまって、すべて存在するものは、もはや精神の作為にすぎなくなり、空中の楼閣にすぎなくなり、あたかも幾何学の図形のように、人の精神に必要であるとの口実をも失ってしまっていた。クリストフは憤慨した。
「機械はうまくいっているのに、なぜ分解するんだ。君はそれをこわしてしまうかもしれない。無駄な骨折りをしたことになるばかりだ。いったい君は何を証明したいのか。つまらないものはつまらないということをか。なあに、そんなことは僕にだってよくわかってる。われわれが戦うのは、四方から空虚が侵入してくるからだ。何も存在しないというのか……。しかしこの僕は存在している。活動の理由がないというのか……。しかしこの僕は活動している。死を好む奴らは、望みどおり死んでゆくがいい。しかしこの僕は生きてるし、生きることを欲するのだ。秤《はかり》の一方の皿《さら》に僕の生命をのせ、他の皿に思想をのせるとすれば……思想なんか鬼に食われてしまえだ!」
 彼はいつもの乱暴さに駆られていたし、議論をしながら人の気を害する言葉を発していた。がそれを言ってしまうとすぐに後悔した。それを取り消したかった。しかしもうあとの祭りだった。オリヴィエはたいへん感じやすかった。すぐに擦《す》りむける皮膚をもっていた。ひどい一言を聞くと、ことに愛してる者からひどい一言を聞くと、胸せまる思いをした。彼は高慢心からそれを口には出さず、自分自身のうちに潜み込んだ。そのうえ彼は、あらゆる大芸術家のうちにある無意識的利己心の突然の閃《ひらめ》きを、友のうちに認めないではなかった。そしてある場合には、自分の生命もクリストフにとっては、美《うる》わしい音楽に比して大した価値をもってはしないと、感ずるのであった。――(クリストフはそのことを彼に隠すだけの労をほとんど取らなかった。)――彼はよくそのことを理解して、クリストフのほうが道理だと思った。しかしそれは悲しいことだった。
 それにまた、クリストフの性質中には各種の混濁した要素があって、オリヴィエにはそれがよく理解できず不安を覚えさせられた。それは奇怪な恐ろしい気分の突発だった。ある時は口をききたがらなかった。あるいはまた、ひどい意地悪をしたがって人を困らせようとばかりした。または、身を隠してしまって、その一日じゅう晩まで姿を見せなかった。あるときなどは二日間も引きつづいていなくなった。何をしてるのかだれにもわからなかった。彼自身もよくは知らなかった。……実際、彼の力強い性質は、その狭い生活と住居の中に、あたかも鶏小屋の中へでも入れられたように押し縮められて、ときどき爆発しかけていた。友の落ち着いてる様が腹だたしかった。するとその友をいじめてやりたくなった。そしては逃げ出して自分と自分を疲らさなければならなかった。パリーの街路や郊外をうろつき回って、ぼんやり何かの冒険を求め歩いた。そして時にはそれにぶつかった。悪い奴に出っくわして満ちあふれた力を喧嘩《けんか》に費やしてしまうようなことでも、彼には平気だったろう……。オリヴィエは憐《あわ》れな健康と肉体の弱さとのために、そのことを理解しかねた。がクリストフ自身にもよくわかってはいなかった。疲れ多い夢から覚《さ》めるように、それらの迷蒙《めいもう》から眼を覚ました――自分のしたことや、これからまだしかねないことなどが、やや恥ずかしくもあり不安でもあった。しかしその狂乱の突風が吹き去ると、あたかも雷雨のあとの広い洗われた空のように、あらゆる穢《けが》れから清められ朗らかになり主権者となった自分自身を、彼はふたたび見出すのだった。オリヴィエにたいしては前よりいっそうやさしくなり、苦しみをかけたことを心痛していた。二人がなんでちょいちょい争いをするのかもうわからなくなっていた。それはいつも彼のほうばかりが悪いのではなかった。それでも彼は罪が自分にあると考えた。自分を正当化するために勢い込んだことをみずからとがめた。友に反対して自分を正当だとするよりも、友に賛成して自分を欺くほうがいい、と彼は考えた。
 二人の誤解は、それが晩に起こって、不和解のうちにその一夜を過ごさなければならないようなときにはことにつらいことだった。その不和解はどちらにとっても激しい悩乱の種となった。クリストフは起き上がって、一言書きしるし、それをオリヴィエの扉《とびら》の下から差し入れた。翌日になると、向こうが眼を覚《さ》ますや否や許しを求めた。あるいはまた、夜中にその扉をたたくこともあった。翌日まで待てなかった。オリヴィエもたいてい、クリストフと同様に眠れなかった。クリストフは自分を愛しているし悪意あってなしたのではないと、彼はよく知っていた。しかし向こうからそう言われるのが聞きたかった。クリストフはそれを言った。すると何もかも消え去った。なんという歓《よろこ》ばしい静安だったろう! そのあとで二人は、いかによく眠ったことだろう!
「ああ、」とオリヴィエは嘆息した、「たがいに理解するのは実に困難なことだ!」
「だが、いつも理解し合う必要があるだろうか。」とクリストフは言った。「僕はそんなことはあきらめた。たがいに愛し合いさえすればいいのだ。」
 それらの些細《ささい》な不和を、その後二人は、細やかな愛情で直そうと考えついたので、そのためにたがいにますます親愛の度を加えた。不和の場合には、オリヴィエの眼の中にアントアネットの姿が現われてきた。二人の友は女のような心づかいをたがいに示した。オリヴィエの祝い日には、クリストフはかならず、彼にささげた作品や、または、花、菓子、贈り物などでそれを祝った。どうして買ってきたかはわからなかった――(なぜなら、家には金のないことがしばしばだったから。)――オリヴィエのほうでは、クリストフの総譜を夜ひそかに写し直しては、眼をくぼましていた。
 人間の誤解は、第三者がはいり込んで来ないかぎりは、けっして重大なことではない。――しかし、いつかは第三者がきっとはいり込んで来るものである。この世ではあまりに多くの人が、他人の事柄を気にして、他人を不和ならしめようとしている。

 オリヴィエは、クリストフが先ごろ出入りしていたストゥヴァン家の人たちを知っていた。そして彼もまたコレットに心ひかれていた。クリストフがその旧知の女の友の取り巻き連中の中でオリヴィエに出会わなかったのは、ちょうどそのころオリヴィエが姉の死にがっかりして、喪にこもってだれにも会わなかったからである。コレットのほうではオリヴィエに会おうとも努めなかった。彼女はオリヴィエを好きだったが、不幸な人を嫌《きら》いだった。自分は感じやすくて悲哀を見るに堪えないと思っていた。オリヴィエの悲しみが過ぎ去るのを待っていた。そして、彼の気持が回復してもうその悲しみに感染するの危険がなさそうだと知ったとき、思い切って呼び寄せてみた。オリヴィエはすぐに応じた。彼は人|馴《な》れないところがあるとともにまた、誘惑されやすい社交的なところがあった。そのうえコレットにたいしては弱味があった。彼はクリストフに、またコレットのもとへ出入りするつもりであることを告げた。クリストフは友の自由を束縛したくなかったので、少しも異議を唱えないで、ただ肩をそびやかした。そして揶揄《やゆ》的な様子で言った。
「面白いなら行くがいいよ。」
 彼はオリヴィエについて行くことを控えた。ああいう浮薄な女どもとはもう関係すまいと決心していた。それは彼が女|嫌《ぎら》いだったからではなかった。かえって女をたいへん好きだった。労働者や雇員や公吏など、すべて働いてる年若い女どもが、朝いつも多少遅れがちに、まだよく眼が覚《さ》めていない様子で、工場や事務所へ急いでゆくのを見ると、彼はやさしい好感を起こした。女がその意識をことごとくそなえてるのは、活動しているとき、自分自身で生存し自分のパンと独立とを得ようと努力してるときばかりだと、彼には思えた。そしてそういうときばかり女は、そのまったくの優美さを、動作の敏捷《びんしょう》なしなやかさを、あらゆる官能の覚醒《かくせい》を、生命と意志との完全さを、そなえてるもののように彼には思えた。彼は怠惰な享楽的な女をきらった。それは不健全な空想に浸って消化と退屈とを事としてる満腹した動物のような気がした。オリヴィエはそれに反して、ただ美しくて周囲の空気を香《かお》らせんがためにのみ生きてるような、女の無為[#「無為」に傍点]を、その花のような魅力を、非常に好んでいた。彼はより多く芸術家的であり、クリストフはより多く人間的だっ
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