「では悪を行なうことでも教えるんですか。」
「なぜです?」
「善とはなんであるかを知らせるためには、そんなにしゃべる必要はない。」
「というより、知らせないためには、でしょう。」
「なるほど、知らせないためには。そして、知らなくとも善を行なうに少しもさしつかえはない。善は学問ではなくて、行為だ。道徳を喋々《ちょうちょう》するのは、神経衰弱者ばかりだ。そして道徳のあらゆる条件中第一のものは、神経衰弱でないということだ。世間の衒学《げんがく》者どもは、言わば自分は足がたたないくせに人に歩くことを教えようとしている。」
「その連中は何もあなたのために語ってるのではありません。あなたは道徳を御存じですが、世には知らない者がたくさんあります。」
「そんなら、子供のように、自分で覚えるまで四足で匐《は》わせとけばいいんだ。しかし、二本の足でやろうと四足でやろうと、とにかく第一のことは、歩くということだ。」
 彼はその四、五歩にも足らない狭い室を隅《すみ》から隅へ大股《おおまた》に歩いた。そしてピアノの前に立ち止まり、蓋《ふた》を開き、楽譜を繰り広げ、鍵盤《けんばん》に手を触れて、言った。
「何
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