lをも恐れていいわけだ、僕は聖書《バイブル》に酔わされてるのだから。」とクリストフは言った。「聖書《バイブル》は獅子《しし》の精髄なんだ。それを常食としてる者こそ強健な心の人だ。福音書も旧約書の配剤がなければ、味のない不健全な料理にすぎない。聖書《バイブル》は生きんことを欲する民衆の骨格なのだ。戦わなければいけない、憎まなければいけない。」
「僕は憎悪《ぞうお》を憎む。」とオリヴィエは言った。
「ただ君に憎悪の念さえあればいいんだが。」とクリストフは言った。
「君の言うとおり、僕には憎む力さえないのだ。しかたがない。敵のほうの理由をも見ないではいられないのだ。僕はシャルダンの言葉をみずから繰り返している、温和だ、温和だ! と。」
「まるで小羊だね。」とクリストフは言った。「しかし否でも応でも僕は、君に溝《みぞ》を飛び越えさしてみせる、無理やりに君を連れ出してみせる。」
果たして彼は、オリヴィエの事件を引き受けて、オリヴィエのために戦いだした。しかし最初のうちはあまり都合よくはいかなかった。彼は第一歩からもういらだって、友を弁護しながらかえってその不利を招いていた。あとで彼はそれに気づいて、自分の頓馬《とんま》さに落胆した。
オリヴィエもじっとしてはいなかった。彼はクリストフのために戦っていた。彼は戦いを恐れていたし、過激な言葉や行為を嘲笑《あざわら》うだけの、明晰《めいせき》皮肉な知力をそなえていはしたが、それでもクリストフを弁護する場合になると、だれよりも、クリストフ自身よりも、いっそう過激になるのだった。無我夢中になるのだった。人は愛においては無茶になり得なければいけない。オリヴィエもその例にもれなかった。――けれども彼は、クリストフよりは巧妙だった。自分自身のことには一徹で頓馬《とんま》だったこの青年も、友の成功のためには、策略やまた狡猾《こうかつ》な術数をさえめぐらすことができた。非常な元気と機敏さとをもって、友に味方を得さしてやった。自分自身の味方に願うのは恥ずかしがってるような、音楽批評家やメセナスのごとき文芸保護者の連中を、うまくクリストフへ心向けさしてやった。
そういう努力にもかかわらず、二人はなかなか自分らの境遇を改善できなかった。たがいの愛情のために、いろいろばかげたことをした。クリストフは金を借りてオリヴィエの詩集を一冊内密に出版したが、一部も売れなかった。オリヴィエはクリストフを説き落として、音楽会をやらせたが、ほとんどだれも聴《き》きに来なかった。クリストフはむなしい聴衆席を前にして、ヘンデルの言葉を繰り返しながらみずから雄々しく慰めた。「素敵だ! 俺《おれ》の音楽はこのほうがよく響くだろう………。」しかしそういう空威張りも、費やした金を償ってはくれなかった。そして二人は寂しく家に帰っていった。
そういう困難のうちにおいて、彼らを助けに来てくれたただ一人の者は、タデー・モークという四十歳ばかりのユダヤ人だった。彼は美術写真の店を開いていた。そしてその職業に興味をもち、趣味と巧妙さとをもってやっていたが、それでもなおその商売をおろそかにしたいほど他のいろんなことに興味をもっていた。商売に身を入れるのも、技術上の完成を求めるためにであり、新しい複写法に熱中するためであった。がその複写法は、巧妙な工夫になってるにもかかわらず、めったに成功しなかったし、またたいへん金がかかった。彼は非常にたくさん書を読んで、哲学や芸術や科学や政治などのあらゆる新思想を求めていた。驚くべきほど鼻がきいて、独自の力をもってる者を嗅《か》ぎ出していた。その隠れたる磁力を感じてるがようだった。オリヴィエの友人らが、各自に孤立して自分自分の仕事をしている間で、彼は一種の連繋《れんけい》の役目をなしていた。彼はあちらこちら行き来していた。そのために、彼らも彼も気づかないうちに、常に一つの思潮が皆の間にでき上がっていた。
その男をオリヴィエがクリストフへ近づかせようとしたとき、クリストフは初め断わった。彼はイスラエルの民族との過去の経験に飽き飽きしていた。オリヴィエは笑いながら、ぜひその男に会えと説きたて、フランスを知らないと同様にユダヤ人をもよく知ってはいないのだと言った。でクリストフは承諾した。しかしタデー・モークを初めて見ると、彼は顔を渋めた。モークは外見上、あまりにもユダヤ人的だった。ユダヤ人ぎらいの者が描き出すとおりのユダヤ型、背の低い頭の禿《は》げた無格好な身体、すっきりしない鼻、大きな眼鏡の後ろから斜視《やぶにらみ》する大きな眼、荒いまっ黒なもじゃもじゃした髯《ひげ》に埋まってる顔、毛深い手、長い腕、短い曲がった足、まったくシリアの小バール神であった。しかし彼のうちには深い温情の現われがあってクリストフはそれに
前へ
次へ
全84ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング