S打たれた。彼はことに、ごくさっぱりしていて、少しも無駄な言葉を発しなかった。誇張したお世辞は少しも言わなかった。ただ慎み深い一言だけで済ました。しかし人の役にたとうと願っていた。人から頼まれないうちに、もう何か世話をしてくれていた。彼はたびたびやって来、あまりたびたびやって来た。そしてたいていいつも何か吉報をもたらした。二人のどちらかへ仕事をもって来、オリヴィエのために芸術上の論文執筆や講義の口をもって来、クリストフのために音楽教授の口をもって来た。彼はけっして長居をすることがなかった。彼は押しつけがましいことをわざと避けていた。たぶんクリストフのいらだちに気づいたのであろう。クリストフはそのカルタゴの偶像みたいな髯面《ひげづら》が戸口に現われるのを見ると、いつもまっ先に我慢しかねるような様子をするのだった。――(彼はモークをモロックと呼んでいた。)――しかしモークが帰ってゆくと彼はすぐに、そのまったくの温情にたいして満腔《まんこう》の感謝を覚ゆるのだった。
温情はユダヤ人には珍しいことではない。それはあらゆる美徳のうちで、彼らがたとい実行しないときでももっともよく容認するものである。実をいえば、温情は彼らの大多数にあっては、否定的なあるいは中性的な形のままで、寛容、無関心、悪を行なうことの嫌悪《けんお》、皮肉な許容、などとなる。ところがモークにあっては、その温情がひどく活動的だった。だれかにもしくは何事かに、いつでも身をささげようとしていた。貧しい同宗の者らのために、ロシアの亡命者らのために、あらゆる国民のうちの迫害された者らのために、不幸な芸術家らのために、あらゆる不運のために、あらゆる健気《けなげ》な事件のために、いつでも尽くそうとしていた。彼の財布はいつも口をあいていた。いかにその中身が少ないときでも、どうにかして多少の金を取り出した。まったく空《から》である場合には、他人の財布から金を引き出した。人の世話をする場合になると、自分の心労や足労を意に介しなかった。単純に――わざとらしいほど単純に人の世話をした。単純で実直だとあまりに自称しているのは瑕《きず》だったが、しかし多とすべきは、実際彼が単純で実直なことだった。
クリストフはモークにたいするいらだちと好感との板ばさみになって、一度餓鬼大将みたいな残忍な言葉を発したことがあった。すなわちある日、彼はモークの親切に感動して、やさしく両手をとりながら言った。
「実に不幸なことだ……実に不幸なことだ、あなたがユダヤ人であるのは!」
オリヴィエはそれがあたかも自分のことででもあるかのように、ぎくりとして真赤《まっか》になった。非常に当惑して、友が相手に与えた不快を打ち消そうとつとめた。
モークは寂しい皮肉の様子で微笑《ほほえ》み、落ち着いて答えた。
「人間であるのはさらに大きな不幸です。」
クリストフはそれを単なる思いつきとしか見なかった。しかしその言葉のうちにこもっている悲観思想は、彼が想像も及ばないほど深いものだった。オリヴィエは精緻《せいち》な感受性によって、それを直覚し得た。人に知られてるモークの下には、まったく異なった、そして多くの点においては全然反対でさえある、他のモークが存在していた。彼の表面の性質は、真の性質にたいする長い戦いから生じたものだった。単純らしく見えるこの男は、曲がりくねった精神をもっていた。自制していない場合には、いつも簡単な事物をも複雑にしたがり、もっとも真実な感情にも気取った皮肉の性質をもたせたがった。謙譲でときとするとあまりに卑下してる観があるこの男は、その底に傲慢《ごうまん》さをもっていて、それをみずから知ってひどく抑制していた。彼のにこやかな楽観主義、たえず他人に尽くさんとする不断の活動性は、深い虚無思想を、自分で見るのも恐ろしい致命的な落胆を、その下に覆《おお》い隠していたのである。モークは、多くのことに大なる信念を表示していた。人類の進歩、純化されたユダヤ精神の未来、新精神の闘士たるフランスの運命などに。――(彼はこの三つの事柄を好んで同一視していた。)――しかしオリヴィエはそんなことに欺かれはしなかった。彼はクリストフに言った
「心の底では、彼は何も信じていないのだ。」
モークは、その皮肉な良識と冷静とにもかかわらず、自分のうちの空虚をながめたがらない神経衰弱者だった。ときどき虚無の発作に襲われた。真夜中に慴《おび》えた唸《うな》り声をたてながら、突然眼を覚《さ》ますこともあった。至る所に動き回るべき理由を捜し求めては、あたかも水中で浮標にすがるようにそれへしがみついていた。
あまりに古い民族たるの特権は、高い代価を要する。そのとき人がになわせられるものは、苦難や疲れた経験や裏切られた知能と愛情など、過去の大なる
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