ばらくの面会にたいする彼の気持と彼女の気持との間の矛盾は、しだいに大きくなっていった。彼女にとっては、今ではその面会時間が全生命だった。しかし彼のほうは、もちろん彼女をやさしく愛してはいたけれど、彼女のことばかりを思えと要求されるのは無理なことだった。一、二度は少し遅れて応接室にやって来た。ある日彼女は彼へ寄宿が厭《いや》かどうかと尋ねた。彼は厭でないと答えた。彼女はちょっと胸を刺される心地がした。――彼女はそういうふうな自分自身を恨んだ。自分を利己主義者だと見なした。二人がたがいに別々で暮らしてゆけないということは、また自分が人生に他の目的を有しないということは、馬鹿げたことであるし、いけない不自然なことでさえあるということを、彼女はよく知っていた。そうだ、彼女はそれを知りつくしていた。しかし知ってるだけで何になろう? どうにもできなかった。それほど彼女は、十年この方、弟という唯一の考えの中に全生活をうち込んできたのだった。その生活の唯一の中心が奪われた今となっては、もう何にも残ってはいなかった。
 彼女は元気を出して、仕事や読書や音楽や好きな書物などに、手をつけようとつとめた……。けれど彼がいなくなっては、シェイクスピヤもベートーヴェンもなんと空虚なことだったろう!――まさしく美しいには違いなかったが……しかし彼がもうそばにいないのだった。いかに美しいものも、愛する者の眼が共に見てくれないときには、なんの役に立とうぞ。美もまたは喜びでさえも、それをもう一つ[#「もう一つ」に傍点]の心の中に味わうのでなければ、何になろうぞ。
 もし彼女がもっと強かったら、自分の生活をまったく立て直して、他の目的を定めようとしたかもしれなかった。しかし彼女は行きづまっていた。ぜひともしっかりしていなければならないという必要がなくなった今となっては、みずから強《し》いていた意志の努力が破れて、ぐったりとなってしまった。一年余り前から彼女のうちにきざして、彼女の気力で押えられていた病気が、今や自由に伸び出してきた。
 彼女は自分の室にただ一人で、火の消えた暖炉のほとりにすわりながら、鬱々《うつうつ》として晩を過ごした。暖炉に火を入れるだけの元気もなければ、床にはいるだけの力もなかった。夢想にふけり寒さに震えうとうととしながら、夜中まですわっていた。過去の生涯《しょうがい》を思い起こし、なつかしい故人や消え失《う》せた幻影といっしょにいた。そして、恋もなく滅んでしまった青春を考えると、たまらない寂しさにとらえられた。薄暗い茫漠《ぼうばく》たる悲しみだった……。往来の子供の笑い声、階下の室のよちよちした小さな子供の足音……その小さな足が自分の心の中を歩いてるように思われた……。疑惑が、いけない考えが、彼女を襲ってき、利己的な快楽的なこの都会の魂が、彼女の弱った魂に感染してきた。――彼女はそれらの悔恨の念をしりぞけ、それらの欲望を恥じた。なんのために苦しんでるのかみずからわからなかった。そして自分の悪い本能のゆえだとした。この憐《あわ》れな小さいオフェリア姫は、不思議な悩みにさいなまれていて、生命の奥底から来る濁った獣的な息吹《いぶ》きが、身内の深みから上ってくるのを感じて、おびえてるのだった。彼女はもう働かなかった。稽古《けいこ》の口もたいてい捨ててしまった。あんなに早起きだったのが、時には午後まで床にはいってることもあった。起き上がるのもふたたび寝るという理由しかなかった。ろくに食事もしなかったし、まったく食べないこともあった。ただ、弟の休みの日――木曜の午後と日曜の終日――には以前のとおりにつとめて弟といっしょにいた。
 弟は何にも気づかなかった。新しい生活を面白がり、それに気を奪われていて、姉の様子をよく観察することができなかった。彼はちょうど青春期にはいっていた。青春期には一つのものに気をこめることができにくい。やがては心を動かされる事柄も、交渉が新しいおりには、それにたいして無関心な様子をするものである。年とった人のほうが、二十歳ごろの青年よりも、自然と人生とにたいしていっそう新鮮な印象といっそう率直な享楽とを、時とするともつがように思われる。すると人は、青年のほうが心が老い込み感情が鈍ってると言う。しかしそれはたいてい誤りである。青年が無感覚らしく見えるのは、感情が鈍ってるからではない。情熱や野心や欲望や固定観念などによって、魂がとらわれてるからである。身体が磨滅《まめつ》して、もはや人生から何も期待しなくなると、私心なき情緒が自由に動いてくる。そして子供らしい涙の泉が開けるのである。オリヴィエはいろんなつまらない事に気をとられていた。そのうちでもっともおもなものは、荒唐|無稽《むけい》な恋愛であって――(彼はいつもそんなことを空想してい
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