た)――それが頭につきまとい、他のすべてのことにたいして盲目となり無関心となっていた。――アントアネットは弟の心中に何が起こってるかを少しも知らなかった。ただ彼が自分から離れてゆくことばかりを見てとっていた。しかし彼が離れていったのも、それはまったく彼のせいばかりではなかった。時には彼も、家にやって来ながら、彼女に会い彼女と話すのが非常にうれしかった。ところが家にはいると、彼の心はただちに冷たくなった。彼女が彼にすがりついて来、彼の言葉を吸い込み、やたらに世話をやく、その落ち着かない愛情と熱い心とに出会うと――その過度のやさしさといらいらした注意とに出会うと、すぐに彼は心を打ち明けたい願いを失ってしまうのだった。アントアネットが普通の状態でないことを、彼は考うべきであったろう。思いやりのある慎み深い平素の態度とは、まったく異なっていたのである。しかし彼はただそうだとかそうでないとかいうごく冷淡な答えをした。彼女が彼をしゃべらせようとすればするほど、彼はますます黙り込んでいった。あるいは乱暴な返辞をして彼女の気を害した。すると彼女もがっかりして口をつぐんだ。その楽しい一日はただ無駄に過ぎ去っていった。――彼は家の敷居をまたいで学校にもどりかけるや否や、自分の仕打ちに堪えがたい後悔を感じた。姉を苦しめたことを夜中に考えては、みずから自分を責めたてた。学校に帰ってすぐに、情に駆られた手紙を姉へ書いたこともあった。――しかし翌朝それを読み返しては引き裂いてしまった。そしてアントアネットは、そんなことは少しも知らなかった。もう弟から愛されていないのだと思っていた。
彼女はなお――最後の喜びと言えないまでも――心が元気づいてくる若々しい愛情の最後の動きを、愛や幸福の希望などにたいする力の捨鉢《すてばち》な眼覚《めざ》めを、経験したのだった。それはもとより根のないものだったし、彼女の穏和な性質に矛盾することだった。それが実際に起こったのも実は、彼女の心が乱れていたせいであり、疾病の前駆たる忘我と興奮との状態のせいであった。
彼女は弟とともに、シャートレー座の音楽会に臨んでいた。弟がある小雑誌の音楽批評を担任することになったので、以前よりも多少よい席に、しかしはるかに相容《あいい》れない聴衆の間に、二人はすわっていた。舞台のそばの管弦楽席であった。クリストフ・クラフトが演奏するはずだった。彼らは二人ともそのドイツの音楽家を知らなかった。やがて音楽家が出て来るのを見たとき、彼女は胸にどきりとした。疲れた眼でぼんやり見ただけだったけれど、彼が舞台にはいったときにはもう疑いの余地はなかった。ドイツで厭《いや》な日を送ってたおりに見覚えてる、あの名も知らぬ友だったのだ。彼女はかつて弟に彼の話をしたことはなかった。心の中で彼のことを考えたこともほとんどなかった。あのとき以来彼女のすべての考えは、生活の苦労に奪われてしまっていた。それにまた彼女は、理性の勝ったフランス娘であって、起原のわからない曖昧《あいまい》な感情を、是認することができなかった。彼女のうちには、窺《うかが》いがたい深いところに、魂の広野が横たわっていた。そこには彼女自身でも見るのを恥じる他の多くの感情が眠っていた。彼女はそれらの感情がそこにあることを知っていた。しかしながら、人の精神で制御できない存在者[#「存在者」に傍点]にたいする一種の敬虔《けいけん》な恐れからして、彼女はそれらの感情から眼をそらしていた。
胸騒ぎが少し静まったとき、彼女は弟の双眼鏡を借りてクリストフをながめた。楽長の譜面台についてる彼の横顔を見て、その気荒な一徹な表情を見てとった。彼ははなはだ不似合いな古ぼけた服をつけていた。アントアネットは口をつぐみ冷たくなって、その悲しい音楽会の騒動に列した。クリストフは聴衆の露《あら》わな悪意にぶつかった。聴衆は当時ドイツの芸術家に好意をもっていなかったし、クリストフの音楽に悩まされた(第五巻広場の市参照)。あまり長すぎると思われた交響曲《シンフォニー》のあとに、ピアノでなお数曲演奏するためにふたたび出て来たとき、彼は愚弄《ぐろう》的な喝采《かっさい》で迎えられた。ふたたび彼を見るのを聴衆があまり喜んでいないことは、疑いの余地がなかった。それでも彼は構わずに、聴衆のあきらめきった倦怠《けんたい》の中で演奏を始めた。後ろの方の桟敷《さじき》にいた二人の聴衆が声高に悪口を言い出して、それが広がってゆき、全部の人々がうれしがった。するとクリストフはひきやめた。悪童めいた無鉄砲さで、マルブルーの出征[#「マルブルーの出征」に傍点]を一本の指でひいた。そしてピアノから立ち上がり、聴衆に向かって言った。
「諸君にはこれが適当です!」
聴衆はその音楽家の意味をとっさに解しかねた
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