嫌な、卑猥《ひわい》な言葉が漏れた。彼女は鋭い苦悩に身内を貫かれた。それが長くつづいた。彼らは話に飽きなかった。そして彼女は耳を貸さずにはいられなかった。しまいに彼らは出かけた。アントアネット一人残った。すると涙が出てきた。心の中のあるものが滅びてしまった。自分の弟――自分の子供――についてこしらえていた理想の幻が、汚れてしまったのである。それは致命的な苦しみだった。晩に顔を合わせたとき、彼女はそれについて弟に何も言わなかった。彼は彼女が泣いたのを見てとったが、その訳を知ることができなかった。どうして自分にたいする彼女の態度が変わったか、理由がわからなかった。彼女が自分を制し得るまでにはしばらく時がかかった。
しかし、彼が彼女に与えたもっとも痛ましい打撃は、ある夜家をあけたことだった。彼女は寝ないで一晩じゅう待ち明かした。そのために彼女が苦しんだのは、精神上の純潔さにおいてばかりではなく、心のもっとも神秘な奥底――恐ろしい感情がうごめいてる深い奥底においてまでだった。その奥底を彼女は見まいとして、取り除くことを許さない被《おお》いを上に投げかけた。
オリヴィエはことに自分の独立を断言してやろうと思っていた。朝になると、取り澄ました態度を装いながらもどってきて、もしなんとか言われたら横柄《おうへい》な答えをするつもりだった。彼女の眼を覚《さ》まさないように爪先《つまさき》立って部屋にはいってきた。しかし見ると、彼女は起きたまま彼を待っていて、蒼《あお》ざめて眼を真赤《まっか》に泣きはらしていた。彼に少しの非難をも加えないで、黙って学校へ行く世話をしてやり、その朝食をこしらえてやった。なんとも言いはしなかったが、気がくじけてしまってる様子だった。その全身が生きた叱責《しっせき》であった。それを見ると、彼は対抗しきれなかった。彼は彼女の膝《ひざ》に身を投げて、彼女の着物に顔を隠した。そして二人とも泣いた。彼は自分自身が恥ずかしく、過ごした一夜がいとわしく、身が汚れてしまった心地がした。彼は話してしまいたかった。彼女はその口に手をあてて話させなかった。彼女はその手に唇《くちびる》を押しあてた。二人はそれ以上なんとも言わなかった。たがいに心がわかっていた。オリヴィエは姉から期待されてるとおりの者になろうとみずから誓った。しかし彼女はいかにつとめても、すぐにはその傷を忘れ去ることができなかった。ちょうど回復期と同じだった。二人の間には気まずい隔てができた。彼女の愛情は前に劣らず強かった。しかし彼女は弟の魂のうちに、今や自分と縁遠いしかも恐ろしいあるものを、見てとったのだった。
オリヴィエの心の中に瞥見《べっけん》したものから、彼女がことに狼狽《ろうばい》させられた訳は、ちょうどそのころ彼女は、ある男子連の追求を苦しんでいたからである。日の暮れ方家にもどってくるとき、またことに、筆耕の仕事を取りに行ったり持って行ったりするため、夕食後出かけなければならないようなとき、男から近寄られたりついて来られたり、いやなことを聞かされたりするのが、彼女には堪えがたい苦痛だった。弟を連れて行けるときはいつも、散歩させるという口実で連れ出した。しかし弟は快く同行しなかったし、彼女も無理に強《し》いることはできなかった。彼女は彼の勉強を邪魔したくなかった。が彼女の純潔な田舎《いなか》風の魂は、パリーのそうした風習になじむことができなかった。彼女から見れば、パリーの夜は暗い森であって、きたない獣から追い回される心地がした。自分の住居から出るのが恐ろしかった。それでも出かけなければならなかった。出かけようと決心するにはかなり時間がかかった。そのためにいつも苦労していた。そしてかわいいオリヴィエも、自分を追っかける男どもの一人と同じように、いつかなるだろう――もうおそらくなってるかもしれない――と考えるとき、家に帰って挨拶《あいさつ》をしながら彼に手を差し出すのが、彼女には心苦しかった。彼のほうでは彼女が自分にたいしてどういう考えをもってるか想像もしてはいなかった……。
彼女は大してきれいではなかったが、きわめて魅力に富んでいて、少しもつとめないのに人目をひいた。ごく質素な服装をし、たいていいつも喪服をまとい、背もそう高くなく、細そりしてひ弱な様子で、ほとんど口もきかず、人込みの中をこっそり歩いて、人の注意を避けていたが、その疲れたやさしい眼や清い小さな口のごくしとやかな表情で、やはり人の注意をひいていた。人から好かれてるとみずから気づくこともときどきあった。そしては当惑した――がやはりうれしくもあった……。他の魂の同情ある接触を感ずると、その穏やかな魂のうちにも、言い知れぬやさしいつつましい浮かれ心が、知らず知らずはいってくるのだった。それがへまなちょ
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