もあった。しかし彼女はそういう考えをしりぞけ、そういう考えを分析しようとしなかった。心ならずも起こってくる考えであって、それを容認してるのではなかった。そして祈祷《きとう》の力で助けられた。ただ、心が祈り得ない時――(そういうこともあった)――心が乾《かわ》ききってしまったようなときは、そうはいかなかった。いらいらして自分を恥じながら、神の恵みがふたたび来るのを黙って待つよりほかはなかった。オリヴィエはかつてそうした苦悩に気づかなかった。そういうときにアントアネットは、いつも何かの口実を設けて、彼のもとから離れるか自分の室に閉じこもるかした。そして危機が過ぎ去ったときにしか出て来なかった。出て来るときには、苦しんだことを悔いてるかのように、にこやかでなやましげで前よりいっそう優しかった。
 二人の室は隣り合っていた。たがいの寝台は一つの壁の両側にくっついていた。壁越しに低声で話ができた。眠れないときには、壁をそっとこつこつたたいて言った。
「眠ったの。私は眠れない。」
 仕切りの壁は非常に薄かったので、二人は同じ床に清浄な添い寝をしてる友だちに等しかった。しかし両方の室の間の扉《とびら》は、本能的な深い貞節さで――聖《きよ》い感情で――夜の間いつも閉《し》め切られていた。開け放してあるのは、オリヴィエが病気のときだけだった。それがまたごくしばしば起こった。
 彼の虚弱な身体は、なかなか丈夫にならなかった。かえってますます弱くなるかと思われた。喉《のど》や胸や頭や心臓をたえず悩んだ。ちょっとした風邪《かぜ》も気管支炎に変ずる恐れがあった。猩紅熱《しょうこうねつ》にかかって死にかかったこともあった。たとい病気でなくても、重い病気の変な徴候を現わして、ただ幸いにも発病していないのだと思わせた。肺や心臓のある部分に痛みを覚えた。ある日医者は彼を診察して、心嚢炎《しんのうえん》か肺炎かの徴候があると言った。つぎに専門の大家に診《み》てもらったが、やはりそういう徴候だと断定された。けれども別に病気は起こらなかった。要するに彼のうちで病気なのは、ことに神経であった。そして人の知ってるとおり、そういう種類の悩みはもっとも予想外な形で現われる。それから不安な数日を過ごすともう癒《なお》っている。しかしアントアネットにとっては、それがどんなにかつらいことだった。幾晩も眠れなかった。しばしば起き上がって、扉越しに弟の息づかいをうかがったが、寝床の中でも突然恐怖にとらえられた。弟が死にかかってるのだと考えた。それがはっきりわかっている。確かにそうだ。彼女は震えながら身を起こし、両手を合わせ、それを握りしめ、それを口に押しあてて声をたてまいとした。
「神様、神様!」と彼女は懇願した、「私から弟を奪わないでくださいませ。いいえ、あなたはそんな……そんなことをなさってはいけません!……お願いです、お願いですから。……おうお母《かあ》様! 私を助けに来てくださいませ。弟を助けて、生かしておいてくださいませ!……」
 彼女は全身を緊張さしていた。
「ああ、こんなに努めてきたあとに、ようやく成功しかけたときに、これから幸福になろうとするときに、中途で死ぬとは……。いいえ、そんなことがあるものですか、それはあまりひどすぎます!……」

 オリヴィエはやがて、他の心配をも姉に与えることとなった。
 彼は姉と同様にまったく清浄だったが、意志が弱くて、それに、あまり自由な複雑な知力をもっていたので、多少|曖昧《あいまい》で懐疑的で、悪だと知ってる事柄にも寛大であって、快楽にひかされていた。アントアネットはきわめて純潔だったから、弟の精神中に起こってることを長く知らないでいた。がある日突然気づいた。
 オリヴィエは彼女が外出してることと思っていた。通例その時刻に彼女は出稽古《でげいこ》をしていた。ところがつい少し前に、彼女は弟子《でし》から一言の手紙を受けて、今日は来ていただかなくてもよいと知らせられた。それは乏しい予算から数フラン引き去ることではあったが、彼女はひそかにうれしかった。そしてたいへん疲れていたので寝床に横たわった。気がとがめずに一日休息し得るのが楽しかった。オリヴィエが学校から帰って来た。友人が一人ついてきた。彼らは隣室にすわり込んで話しだした。その言葉がすっかり聞き取れた。彼ら二人きりだと思って遠慮していなかった。アントアネットは微笑《ほほえ》みながら、弟の快活な声に耳を傾けた。がやがて、彼女は微笑をやめた。血のめぐりが止まったかと思われた。彼らは生々《なまなま》しい嫌《いや》な言葉でひどい事柄を話していた。それを喜んでるがようだった。オリヴィエの、あのかわいいオリヴィエの、笑い声が聞こえた、潔白だと信じていた彼の唇《くちびる》から、聞くもぞっとするほど
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