、やって来て低い椅子《いす》にすわった。それもピアノのそばにではなく――(なぜなら、彼は演奏中そばにだれかがいることを許し得なかった)――暖炉のそばにであった。そしてそこで、子|猫《ねこ》のようにかがみ込み、背をピアノの方に向け、一塊の練炭が音もなく燃えつきてゆく炉の赤い輝きに眼をすえながら、過去の事柄をうっとりと思い浮かべていた。九時が打つと彼女は無理にも、もうよす時間だとオリヴィエに知らせなければならなかった。彼にその演奏をやめさせるのはつらいことだったし、また自分もその夢想から覚めるのはつらいことだった。しかしオリヴィエにはまだ晩の勉強が残っていたし、寝るのがあまり遅れてもいけなかった。けれど彼はすぐには言うことをきかなかった。音楽をやめて真面目《まじめ》に仕事にかかるには、いつもしばらく時がかかった。彼の考えは他の方面へうろついていた。そのぼんやりした心持から脱しないうちに、三十分が鳴ることがしばしばだった。アントアネットは机の向こう側で、かがみ込んで仕事をしながらも、彼が何にもしていないことを知っていた。けれど、彼を監視してるようなふうをしながら、彼の気分をいらだたせはすまいかと恐れて、あまり彼の方をのぞき込むことができなかった。
彼はその日々をとりとめもなく過ごしてゆく自由気ままな年齢――幸福な年齢――に達していた。清らかな額《ひたい》、ときどき黒い隈《くま》で縁取られる、ずるそうな率直な娘らしい眼、大きな口、その唇《くちびる》は乳飲み子のようにふくれ上がって、悪戯児《いたずらっこ》らしい上の空のぼんやりした多少ゆがみ加減の微笑を浮かべるのだった。多すぎる髪は、眼のところまでたれていて、首筋のところでは髻《もとどり》のようになり、かたい一|房《ふさ》の毛は後ろへ巻き上がっていた。首のまわりにゆるいネクタイ――(姉がそれを毎朝丁寧に結んでくれた)――短い上着、そのボタンはいくら姉から縫いつけてもらってもすぐに取れた。カフスはつけなかった。手首の骨立った大きい手をしていた。嘲笑《ちょうしょう》的な眠たそうな恍惚《こうこつ》とした様子で、いつまでもぼんやりしていた。つまらぬことをも面白がるその眼は、アントアネットの室の中を見回していた――(勉強の机はアントアネットの室に置いてあるのだった)――黄楊《つげ》の小枝といっしょに象牙《ぞうげ》の十字架が上方にかかってる、鉄の小さな寝台――父や母の肖像――塔と鏡のような池とをもった田舎《いなか》の町を示してる古い写真、などの上に彼の眼は落ちた。それから、黙って仕事をしてる姉の蒼《あお》ざめた顔を見ると、彼女にたいする深い憐憫《れんびん》と自分自身にたいする腹だちとに、彼はとらわれるのだった。そこで彼ははっと我に返って、ぼんやりしてたことをいらだった。そして元気に勉強を始めて、無駄《むだ》にした時間を取り返そうとした。
休みの日には書物を読んだ。二人は別々に読んだ。たがいに愛情をいだいてはいたけれど、同じ書物を声高くいっしょに読むことはできなかった。慎みが足りないように思われて厭《いや》だった。りっぱな書物は、心の沈黙のうちにのみささやかるべき秘密のようだった。あるページが非常に面白いときには、彼らはそれを相手に読んできかせはしないで、その部分に指をあてて書物を渡し合った。そして言った。
「読んでごらんなさい。」
そして一人が読んでる間、それを読んでしまった方は、眼を輝かしながら、相手の顔に現われる情緒を見守っていた。そしていっしょにその情緒を楽しんだ。
しかし多くは、書物を前にして肱《ひじ》をつきながら、別に読もうともしなかった。二人は話をした。ことに夜がふけてくるにつれて、ますます心の中のことをうち明けたくなり、口がききやすくなっていった。オリヴィエは悲しい考えをいだいていた。弱い男である彼は、他人の胸に自分の悩みを注ぎ込んで、その悩みからのがれる必要があった。彼は種々の疑惑に苦しめられていた。アントアネットは彼を励まし、その弱点にたいして彼を保護してやらねばならなかった。それは毎日くり返される不断の闘《たたか》いだった。オリヴィエは苦々《にがにが》しい痛ましい事柄を口にした。言ってしまうとほっとした。そういう事柄がこんどは姉を苦しめてるかどうかは、気にかけて知ろうともしなかった。いかに姉をがっかりさしてるかは、ずっとあとになって気づいた。彼は姉の力を奪ってしまい、自分の疑惑を姉のうちにしみ込ませてるのだった。がアントアネットはそういう様子を少しも見せなかった。生まれつき勇敢で快活であったから、もう長い前から快活さを失ったあとでもなお、強《し》いてうわべだけはそれを装っていた。ときとすると深い倦怠《けんたい》に襲われ、みずから決心してる一生犠牲の生活に反発心が起こること
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