しそういう抵抗のために、人々はいっそう激しく意地悪くせがんだ。あまり彼の反抗が横着になると、両親の叱責《しっせき》まで加わって、頬《ほお》を打たれることさえあった。そして彼はいつも、しまいには演奏しなければならなかった――厭々《いやいや》ながらではあったが。そして演奏のあとでは、うまくひけなかったことを夜通し苦にした。なぜなら、彼はほんとうに音楽を愛していたから。
 この小さな町の趣味は、いつもそれほど凡庸《ぼんよう》だときまってはいなかった。町の二、三の家で、かなりりっぱな室内音楽会が行なわれたときのことを、人々は記憶していた。ジャンナン夫人がしばしば語るところによれば、彼女の祖父は、熱心にチェロをひき回したり、グルックやダレーラックやベルトンの節を歌ったのだった。今でもなお、大きな楽譜がイタリー歌曲のひとつづりとともに、家に残っていた。愛すべき老祖父は、ベルリオーズが評したアンドリュー氏に似ていた。「彼はグルックを非常に好きだった[#「非常に好きだった」に傍点]」とベルリオーズは言っている。そして苦々《にがにが》しげにつけ加えている、「彼はピッチーニをも非常に好きだった[#「非常に好きだった」に傍点]。」――ところで祖父は、ピッチーニの方を多く好きだったろう。がそれはとにかく、彼の集めたものの中では、イタリーの歌曲が数においてはるかに優勢だった。それらのものが、小さなオリヴィエの音楽上のパンだった。中身の少ない食物であって、子供に食べさせる田舎《いなか》の砂糖菓子に似ていた。その菓子は趣味を減退させ、胃をそこない、より真面目《まじめ》な食物にたいする食欲を永遠に奪い去る恐れがある。しかしオリヴィエは貪食《どんしょく》だととがめられるわけはなかった。彼はより真面目《まじめ》な食物を与えられていなかった。パンがなくて菓子ばかり食べていた。かくて自然の勢いとして、チマローザやパエジエロやロッシーニなども、この神秘家の憂鬱《ゆううつ》な少年の乳母となった。それらの陽気な厚顔な老シレヌスたちや、率直でなまめかしい微笑を浮かべ眼に美しい涙をためてる、ナポリとカタニアとの元気な二人の小酒神、ペルゴレージとベリーニなどが、牛乳の代わりに注《つ》いでくれる、泡《あわ》だった白葡萄酒《アスチ》を飲みながら、彼は酔って頭がふらふらするのだった。
 彼はただ一人で、自分の楽しみのために
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