友だちもなかった。警察に訴えることも、世間の悪評を気にしてなしかねた。それでもどうにか片をつけねばならなかった。黙っていたのでは十分に身を守り得ない気がした。つけねらってる悪者は執拗《しつよう》であって、こちらに危険を及ぼすほどの極端にまで走るかもしれなかった。
男のほうからは、あすリュクサンブールの博物館で会うことを命令する、一種の最後|通牒《つうちょう》を送ってきた。彼女はそれへ赴《おもむ》いた。――いろいろ考えめぐらしたうえついに、相手の悪者はナタン夫人の家で会った男に違いないと信ぜられた。手紙の一つに書いてあったある言葉は、そこでしか起こりようのない一事に説き及ぼしていた。彼女はナタン夫人に骨折りを願い、博物館の入口まで馬車でついて来てもらい、そこでしばらく待っていてもらった。彼女は中にはいった。約束の画面の前に立ってると、脅迫者が揚々と近寄ってきて、わざとらしい慇懃《いんぎん》さで話しかけた。彼女は黙ってその顔を見つめた。男は言い終えてから、なぜそんなに顔を見てるのかと冗談げに尋ねた。彼女は答えた。
「私は卑劣な人を見てるのです。」
彼はそれくらいのことでは閉口しなかった。そしてしだいに狎《な》れ狎れしくしだした。彼女は言った。
「あなたは私に悪名を着せるといっておどかしなさいましたね。私はその悪名をあなたに差し上げにまいったのです。受け取ってくださいましょうね。」
彼女は身を震わし、声高に口をきき、人々の注意をひくつもりでいる様子を示していた。人々は彼らのほうをながめていた。彼女がどんなことにも辟易《へきえき》しないのを彼は感じた。そして声の調子を低めた。彼女は最後にも一度言ってやった。
「あなたは卑劣な人です。」
そして彼のほうへ背を向けた。
彼はまいった様子をしたくないので、彼女のあとについてきた。彼女はそれをすぐ後ろに従えながら博物館を出た。待ってる馬車のほうへまっすぐに進んでいって、いきなりその扉《とびら》を開いた。ついてきた男はナタン夫人と顔を合わした。夫人はその男を見てとって、名前を呼びながら挨拶《あいさつ》をした。男は度《ど》を失って逃げ出した。
アントアネットはナタン夫人へ事情を述べなければならなかった。彼女は心ならずもそしてたいへん控え目に話した。傷つけられた貞節の悩みの秘事に、他人を立ち交らせるのは心苦しかった。ナタン夫人
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