はもっと早く知らせなかったことを責めた。アントアネットはだれにも内密にしてもらうように頼んだ。事件はそれきりだった。そしてアントアネットが頼りにしてる夫人は、その客間をあの男に向かって閉ざす必要はなかった。彼のほうでもうやって来なかったから。

 それとほとんど同じころ、アントアネットにはまったく違った種類の他の心痛が起こった。
 四十歳ばかりのごく正直な男で、極東に領事の役を帯びていて、数か月の休暇をフランスで過ごしに帰って来ていたのが、ナタン家でアントアネットに出会った。そして彼女に惚《ほ》れ込んでしまった。その出会いは、アントアネットの知らないまにナタン夫人が前もって手はずを定めたのだった。夫人はかわいい彼女を結婚させようと考えてるのだった。その男もやはりイスラエル人だった。美男ではなかった。頭が少し禿《は》げて背が曲がっていた。しかし温良な眼をしていて、態度もものやさしく、自分が苦しんだので他人の苦しみにも同情し得る心をもっていた。アントアネットはもう昔の空想的な少女ではなかった。麗わしい日に恋人とともにする散歩といったふうに人生を夢みる、甘やかされた子供ではなかった。彼女は今では、人生をきびしい戦いだと見なしていた。長い労苦の歳月の間に少しずつ獲得していった地歩をも、一瞬間に失うかもしれない憂いの下にあって、決して休むことなく、毎日くり返さなければならない戦いだと見なしていた。そして、男性の友の腕によりかかり、彼と労苦を分かち、彼が見守っていてくれる間少し眼をつぶることができたら、どんなにか楽しいだろうと考えていた。それは一つの夢であることを彼女は知ってはいたけれど、しかしまだ、その夢をまったく見捨てるだけの勇気はなかった。それでも実は、自分の周囲の社会では持参財産のない娘は何物も望み得ないということを、知らないではなかった。フランスの古い中流社会が卑しい利害観念を結婚にもち出すことは、全世界によく知れ渡ってることである。ユダヤ人らは金銭にたいしてそれほど下劣な貪欲《どんよく》をもってはいない。富裕な青年が貧しい娘を望み選ぶことや、財産のある娘が知力の秀でた男を熱心に捜し回ることなどは、彼らの間によく見受けられる。しかしフランス中流のカトリック教徒の田舎《いなか》紳士の間では、いつも財嚢《ざいのう》と財嚢との捜し合いである。しかもなんのためであるか? 憐《
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