代のドイツ音楽は何もなかった。シュトラウスは他の人々よりも怜悧《れいり》で、自分の新作をパリーの聴衆に聞かせに、毎年みずからやって来たのである。ベルギーの音楽は何もなかった。チェコの音楽は何もなかった。しかし最も驚くべきことには、現代のフランス音楽がほとんど何もなかった。――それでも世人は皆、世界を革新する事柄をでも話すような様子ありげな言葉で、フランス現代音楽のことを話していた。クリストフはその演奏を聴く機会をねらった。彼はなんらの偏見もなく広い好奇心をいだいていた。新しいものを知りたくてたまらなかったし、天才の作品を賛美したくてたまらなかった。しかしいかに努力しても、そういうものを聴くにいたらなかった。というのは、それが三、四の小曲なんかだろうとは思っていなかったからである。かなり精功に書かれてはいるが冷やかで上手に入り組ませてある小曲で、彼はそれに大して注意を払っていなかった。
クリストフは自説をたてるまでにまず、音楽批評界の情勢を知ろうとつとめた。
それは容易なことではなかった。音楽批評界は、各人が自分勝手なペトー王廷に似ていた。音楽に関する種々の新聞雑誌は、おかしなほどたがいに矛盾してるのみでなく、また同じ新聞雑誌のうちでも、各記事ごとにたがいに矛盾していた。そのすべてを読んでたら、目がまわるかもしれないほどだった。幸いにも、各記者は自分の論説しか読んでいなかったし、公衆はどの論説も読んではいなかった。しかしクリストフは、フランスの音楽家らについて正確な観念を得たかったので、何一つ見落とすまいとつとめた。そして彼は、魚が水中を泳ぐように平然と、矛盾の中に動き回ってるこの民衆の、快活な冷静さに感嘆させられた。
それらの錯雑した意見の中で、一つの事柄が彼の心を打った。それは多くの批評家の学者的な態度であった。フランス人は何事をも信じないすてきな空想家だとは、だれの戯言《たわごと》ぞ! クリストフが見たフランス人は、ラインの彼方《かなた》のあらゆる批評家よりも、さらに多く音楽上の知識をそなえていた――何にも知らない時でさえも。
この当時、フランスの音楽批評家は、音楽を学び知ろうとつとめていた。すでに音楽を知ってる者も幾人かあった。それらは皆独創家で自分の芸術に関する考察に努力し、みずから一人で思考しようとしていた。もとよりそれらの人々は有名ではなかった。自分の小さな雑誌の中にとじこもっていた。一、二の例外を除いては、諸新聞雑誌は彼らの味方でなかった。彼らは怜悧な面白いりっぱな人々ではあったが、孤立してるために往々逆説に傾きやすく、また仲間だけで言論する習慣のために、仮借《かしゃく》なき批判と饒舌《じょうぜつ》とに傾きがちだった。――その他の批評家らも、和声《ハーモニー》の初歩を急速に覚え込んでいた。その新しく得た知識に感心していた。ちょうどジュールダンさんが文法の規則を学んだ時のように、彼らは自分の知識に恍惚《こうこつ》となっていた。
「デー、アー、ダ。エフ、アー、ファ。エル、アー、ラ……。ああ実にいい……。何かを知るのは実にいいことだ!……」
彼らが口にすることは、主題や副主題、陪音《ばいおん》や結合音、九度の連結や長三度の連続、などばかりだった。ある楽譜の中に展開する一連の和声《ハーモニー》に名前を与え得ると、得意然と額《ひたい》をふいていた。その楽曲を説明し得たような気がし、それを自分で書いたような気がしてるのだった。しかし実を言えば、学生がキケロの一ページに文法的な分解を施すのと同じく、彼らはその楽曲を学生語でくり返したのにすぎなかった。そして彼らのうちの最も優良な者にとっても、音楽を魂の自然の言葉だと考えることはいたってむずかしかったので、彼らは音楽をもって絵画の一分派だとするか、あるいはまた、音楽を科学の末に列せしめて、和声的構成の問題だけにしてしまいがちだった。かかる学者らは、当然過去の音楽家にまでさかのぼらずにはいられなかった。彼らはベートーヴェンのうちにも欠点を見出し、ワグナーをも攻撃した。ベルリオーズやグルックにたいしては熱罵《ねつば》を浴びせた。彼らにとっては、この流行の際に当たって、ヨハン・セバスチアン・バッハやクロード・ドビュッシー以外には、何者も存在しなかった。そして、近年あまりにもてはやされたこのバッハでさえも、すでに衒学《げんがく》的で陳腐《ちんぷ》であると見なされ始め、要するに多少子供っぽいのだと見なされていた。ごく秀《ひい》でた人々は、ラモーやまた偉人と言われてるクープランなどを、妙に賞揚していた。
それらの学者の間に、激しい争論が起こっていた。彼らは皆音楽家だった。しかし皆が同じ態度の音楽家でなかったから、各自に自分の態度だけがいいと称していた。そして仲間の者らの態度をすべて馬鹿だとののしっていた。彼らはたがいに似而非《えせ》文学者だとし、似而非学者だとしていた。理想主義だの唯物主義、象徴主義だの実物主義、主観主義だの客観主義、などという言葉をたがいに与え合っていた。クリストフは、パリーでもドイツと同じ喧嘩《けんか》を見出すのならば、何もわざわざドイツからやって来るには及ばなかったと、みずから言った。彼らはいい音楽に向かって、種々の異なった享楽法を与えてもらったことを感謝もせずに、自分の享楽法をしか容認しなかった。そして新しいリュトラン[#「リュトラン」に傍点]が、激しい論争が、当時音楽家らを両軍に分かっていた。すなわち対位法軍と和声軍と。ちょうど大ブーチャン[#「大ブーチャン」に傍点]と小ブーチャン[#「小ブーチャン」に傍点]とのように、一方は音楽は水平に読むべきものだと主張し、他方は音楽は垂直に読むべきものだと主張していた。後者の人々は、味のよい和音、汁気《しるけ》の多い連結、滋養分に富んだ和声、などばかりを問題にしたがっていた。あたかも菓子屋の噂《うわさ》をでもするように、音楽のことを話していた。前者の人々は、くだらない耳だけを問題とするのを、決して許さなかった。彼らにとっては、音楽は演説と同じものだった。議会と同じものだった。演説者らは皆一時に、あたりの者に構わずに、最後まで口をきくのだった。いちいち聞き取れなくても平気だ。翌日の官報で皆読むことができるのである。音楽は読まれるためにできてるので、聞かれるためにできてるのではない。クリストフは、そういう水平派[#「水平派」に傍点]と垂直派[#「垂直派」に傍点]との間の論争を、初めて聞くと、皆狂人ばかりだと思った。連続軍[#「連続軍」に傍点]と重積軍[#「重積軍」に傍点]とのどちらかに味方せよと促されると、ソジーの名言ではないが、例の自分一個の名言で答えた。
「僕は諸君全部の敵だ。」
すると彼らはしつこく尋ねた。
「和声と対位法と、どちらが音楽ではよりたいせつか。」
彼は答えた。
「音楽がたいせつだ。まあ君らの音楽を示してくれ。」
彼らは自分らの音楽については、皆意見が一致していた。あまり長い名声を有する過去の大家を攻撃するか、さもなくばたがいに攻撃し合ってるくせに、一つの共通な熱情ではいつも一致していた。それは音楽上の熱烈な愛国心だった。彼らにとっては、フランスは偉大な音楽的国民だった。彼らはいつも、ドイツの衰微を言明していた。――クリストフはそのために気分を害しはしなかった。彼はその批判を正当だとみずから認めていたので、本気で抗弁することができなかった。しかしフランスの音楽が最上だという説には、かなり驚かされた。実際のところ、過去にそういう形勢はどうも認めがたかった。それでもフランスの音楽家らは、自分らの芸術が遠い昔においてはすてきなものであったと肯定していた。それにまた彼らは、フランスの音楽をさらに光栄あらしむるために、まず前世紀のあらゆるフランスの光栄ある楽匠をあざけった。ただ一人のごくりっぱな純潔な大家だけは例外としていた――がそれもベルギー人だったのである。そういう非難をしてから、彼らはいっそう気兼ねなしに、古代の大家を賞揚したのである。それらの大家は皆世に忘られてしまってる人々で、中には今日までまったく名を知られてない者もあった。フランス大革命から新世界が開けたのだとする、フランスの通俗派とまったく反対に、これらの音楽家らは、フランス大革命を一つの大山脈だと見なして、音楽の黄金時代を、芸術のエルドラードを、振り返ってながめるためには、それをよじ登らなければならないとした。そして長い暗黒のあとに、黄金時代はふたたび来かかってるそうだった。堅い壁はくずれかけている。音響の魔法使が、驚嘆すべき春をよみがえらせかけている。音楽の老木は、ふたたび柔らかな若葉に覆《おお》われようとしている。和声《ハーモニー》の花壇には、無数の花が新しい曙《あけぼの》ににこやかな眼を開きかけている。銀の音《ね》の泉の響きが、小川のさわやかな歌が、聞こえ始めている……。一つの田園詩だった。
クリストフは非常に喜んだ。しかしパリー諸劇場の広告をながめると、マイエルベール、グノー、マスネー、および彼が知りすぎるほど知ってるマスカーニやレオンカヴァロ、などの名前がいつも出ていた。そういう不貞節な音楽が、娘たちの喜びそうなものが、造り花が、香水の店が、約束のアルミデスの園なのかと、クリストフは友人らに尋ねた。すると彼らは、気を悪くした様子で抗言した。彼らの言うところによれば、そういうものは瀕死《ひんし》時代の最後の名残《なご》りだった。もうだれもそんなものを顧みる者はなかった。――実際ではカヴァレリア[#「カヴァレリア」に傍点]・ルスチカナ[#「ルスチカナ」に傍点]がオペラ・コミック座に君臨してい、パリアッチ[#「パリアッチ」に傍点]がオペラ座に君臨していた。マスネーとグノーとがいちばん多くもてはやされていた。音楽上の三体神ともいうべき、ミニョン[#「ミニョン」に傍点]とユグノー教徒[#「ユグノー教徒」に傍点]とファウスト[#「ファウスト」に傍点]が、一千回の公演を景気よく越していた。――しかしそういうのはなんら重きをなさない出来事だった。眼中におくに足りないことだった。一つの不都合な事実が理論の邪魔になる時には、最も簡単な方法は、その事実を否定することである。フランスの批評家らは、右のような厚かましい作品を否定し、それを喝采《かっさい》する公衆を否定していた。も少しおだてられたら、音楽劇全体を否定するかもしれなかった。彼らに言わすれば、音楽劇は文学の一種であって、それゆえに不純なものであった。(彼らは皆文学者だったから、文学者たることを皆きらってるのだった。)表現的で叙述的で暗示的なあらゆる音楽、一言にして言えば、何かを言わんとするあらゆる音楽は、不純の名を冠せられていた。――各フランス人のうちには、ロベスピエールのごとき性質がある。だれかをまたは何かを純粋にせんがためには、いつもその首を切らざるを得なくなる。――フランスの大批評家らは純粋な音楽をしか容認しないで、その他は衆愚の手に任していた。
クリストフは自分の趣味がいかに劣ってるかを考えて、非常に心細い気がした。しかし多少慰められたことには、劇を軽蔑《けいべつ》してるそれらの音楽家らが皆、劇のために書いてることだった。歌劇《オペラ》を書かない者は一人もなかった。――しかしそれもまたたぶん、なんら重きをなさない事柄に違いなかった。彼らを批判するには、彼らが希望してるとおりに、彼らの純粋なる音楽によってしなければならなかった。クリストフは彼らの純粋な音楽を捜した。
テオフィル・グージャールは、国民的芸術に奉仕してるある協会の音楽会に、クリストフを連れていった。そこでは新しい光栄が、徐々に形造られ育《はぐく》まれていた。それは大きな団体であって、幾つもの礼拝堂をもってる小教会であった。各礼拝堂にはその聖者があり、各聖者にはそれぞれ信仰者があって、この信仰者らは好んで隣りの礼拝堂の聖者を悪口していた。それらの聖者らのうちに、クリストフは初め大した差異をおかなかっ
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