っそう成育していた。万事かくのごときものだということを知っていた。パリーにかけていた幻はすべて滅びた。どこへ行っても同じ人間どもばかりだった。腹をすえてかからなければならなかった。世間相手の子どもらしい闘争に固執してはいけなかった。平然として自分自身たることが必要であった。ベートーヴェンが言ったように、「もし生命の力をすべて世間のことに与えてしまうならば、最も高尚なもの最も優良なものにたいしては、何がわれわれに残るであろうか?」彼は昔あれほど苛酷《かこく》に批判した自分の天性と自分の民族とを、今力強く意識しだした。パリーの雰囲気《ふんいき》に圧倒さるるに従って、祖国のそばに逃げてもゆきたい欲求を、祖国の精華が集められてる詩人や音楽家の腕の中に逃げ込みたい欲求を感じた。彼らの書物をひらくや否や、日に照らされたライン河の囁《ささや》きが、うち捨ててきた旧友のやさしい微笑《ほほえ》みが、室の中に満ちてきた。
いかに彼は彼らに対して忘恩であったろう! どうして彼は、彼らの誠実な好意の貴《とうと》さをもっと早く感じなかったのか? 彼は自分がドイツにいた時、彼らにたいして言った不正な侮辱的な事柄を皆、思い起こしては恥ずかしくなった。あの当時彼は、彼らの欠点、彼らの拙劣な儀式張った態度、彼らの涙っぽい理想主義、彼らのつまらない思想上の虚偽、彼らのつまらない卑怯《ひきょう》さ、などをしか見てはいなかった。ああそういうものは、彼らの大なる美点に比ぶればいかに些細《ささい》なものだろう! どうして彼は、それらの欠点にたいしてあれほど酷薄であり得たのか? 今になって思えば、その欠点のために彼らはさらに強く人の心を打つのであった。なぜなら、そのために彼らはさらに人間的なのであったから。反動によって彼は、昔自分が最も不正に取り扱った人々にたいして、より多く心ひかれた。シューベルトやバッハにたいして、彼はいかにひどいことを言ったことであるか! そして今や彼は、彼らのすぐ近くに自分自身を感じた。かつて彼から辛辣《しんらつ》に滑稽《こっけい》な点を指摘されたそれらの偉大な魂は、彼が遠くへ流竄《りゅうざん》の身となった今となって、彼の方へ身をかがめて、親切な微笑を浮かべながら彼に言っていた。
「兄弟よ、われわれが控えている。しっかりせよ。われわれもまた、不当に大きな悲惨をなめたのだ……。なに、どうにか切りぬけてゆけるものだ……。」
彼はヨハン・セバスチアン・バッハの魂の大洋が怒号するのを聞いた。※[#「風にょう+(火/(火+火))、第3水準1−94−8]風《ひょうふう》、吹き荒れる風、飛び去る人生の暗雲――喜悦や悲痛や憤怒《ふんぬ》に酔った諸々《もろもろ》の民衆、その上に翔《かけ》る、温和に満ちたキリスト平和の主宰者――その足音で世界を揺がす聖なる婚約者の前に、歓喜の叫びを発して飛び歩いてる、夜警らの声で眼を覚ます、諸々《もろもろ》の都市――思想、熱情、音楽的形象、勇荘な生活、シェイクスピヤ式の幻覚、サヴォナロラ式の予言、または皺《しわ》寄った眼瞼《まぶた》と挙げた眉《まゆ》との下に輝いてる小さな眼をもち、二重頤《ふたえあご》をもった、チューリンゲンの少年歌手のいじけた身体にこもっている、牧歌的な叙事詩的な黙示録的な幻影、などの驚くべき貯蔵……。彼はその姿をありありと見た。陰気で、溌剌《はつらつ》として、多少|滑稽《こっけい》で、比喩《ひゆ》と象徴とがいっぱいつめ込まれた頭脳をもち、ゴチック的でまたロココ的で、怒《おこ》りっぽく、頑固《がんこ》で、清朗で、生命にたいする熱情と死にたいする郷愁とをそなえている……。彼はその姿を学校の中に見た。嗄《しゃが》れ声のきたない粗野な賤《いや》しい疥癬病《かいせんや》みの生徒らの中に交って、衒学《げんがく》的な天才はだの風貌《ふうぼう》をしているが、それらの悪童どもと口論し、時としては土方みたいになぐり合い、ある者から打ち倒されることもある……。彼はその姿を家庭の中に見た。二十一人の子どもにとり囲まれていて、そのうち十三人は彼より前に死に、一人は白痴であるが、その他は皆りっぱな音楽家で、彼に小音楽会を催してくれる……。疾病《しっぺい》、埋葬、苦々《にがにが》しい論争、困窮、世に認められない天才、――そしてことに、その音楽、その信仰、解放と光明、垣間《かいま》見られ予感され欲求され把握《はあく》された喜悦、――神、彼の骨を焼き毛を逆立たせ口から雷鳴を発せしむる神の息吹《いぶ》き……。おお力よ、力よ! 力の多幸なる雷電よ。
クリストフは息を凝《こ》らしてその力を飲み込んだ。ドイツ人の魂から流れ出るこの音楽の偉力の恩恵を、彼は感じた。往々平凡で粗野でさえもあるが、そんなことはなんの関係があるか? 肝要なのは、それが満ちあふれてることであり、満ちあふれて流れてることである。フランスにおいては、音楽はパストゥール式|濾過器《ろかき》によって、ていねいに口をふさいだ瓶《びん》の中に、一滴ずつ集められている。そして無味な水ばかり飲んでいるそれらの連中は、ドイツ音楽の大河にたいして嫌悪《けんお》の感をいだいている。彼らはドイツ精神の欠点をいちいち拾い上げるのである!
「憐《あわ》れなる小人輩よ!」とクリストフは、先ごろ自分自身も同様に笑うべきものであったことを思い出さないで考えていた。「彼らはワグナーやベートーヴェンのうちにも欠点を見出している。彼らには欠点のない天才が必要なのかもしれない。……あたかも、嵐《あらし》は吹き荒れても、事物のりっぱな秩序を少しも乱すまいと努める、とでもいうかのように!……」
彼は自分の力に欣喜《きんき》しながらパリーの中を濶歩《かっぽ》した。理解されなくとも結構だ。その方がかえって自由だろう。創造するのは天才の役目であるが、内心の法則に従って有機的に組み立てられた完全な一世界を創造するには、すっかりその中に生きなければならない。芸術家は孤独でありすぎるということは決してない。恐るべきことは、自分の思想を鏡に映してその変形され縮小されたものを見ることである。自分のなさんとすることは、なし遂げないうちに他人に漏らしてはいけない。そうしなければ最後までやり遂げる勇気がなくなるだろう。なぜなれば、その時自分のうちに見えるのは、もはや自分の思想でなくて、他人の惨《みじ》めな思想であろうから。
今や何物も彼の夢想を乱しに来るものはなかった。その夢想は、彼の魂のあらゆる隅々《すみずみ》から、彼の進路のあらゆる石ころから、泉のようにほとばしり出ていた。彼は幻覚者のような状態に生きていた。すべて見るもの聞くものは、実際に見聞きするものとは異なった人物事物を、彼のうちに喚起さしてくれた。ただ生きてさえいれば、自分の周囲至るところに、作中人物の生活が見出された。その感覚の方から彼を捜しにきてくれた。通りがかりの人の眼、風がもたらす一の声音、芝生《しばふ》の上に落ちてる光、リュクサンブールの園の木の間にさえずる小鳥、遠くで鳴る修道院の鐘、青ざめた大空、室の奥から見える空の片隅、一日の種々の時間における物音と色合い、それらを彼は自分のうちに認めはしないで、夢想の人物のうちに認めた。――クリストフは幸福だった。
とは言え、彼の境遇は最も困難になっていた。唯一の財源だったピアノの教授のわずかなものを、皆失ってしまった。ちょうど九月のことで、パリーの上流社会は休暇中だった。他の弟子《でし》を見つけるのは困難だった。彼が見出した唯一の弟子は、頭はよいが分別の足りない技師で、四十歳になってヴァイオリンの名手になろうと思いついた男であった。クリストフはヴァイオリンがそう上手《じようず》ではなかった。それでもこの弟子よりは巧みだった。そしてしばらくの間彼は、一時間二フランのきめで週に三時間教えてやった。しかし一か月半ばかりたつと、技師は飽いてしまって、自分の重大な天職は絵画にあることをにわかに発見した。――ある日彼がその発見をクリストフに語った時、クリストフはたいへん笑った。しかし笑い終えてから、懐《ふところ》勘定をしてみると、最後の謝礼としてもらった十二フランがあるきりだった。それでも彼はあわてなかった。ただ、生活の他の方法を捜さなければならないが、出版共著の方にでもまた奔走を始めてみようかと、考えただけだった。それはたしかに愉快なことではなかった。……が、馬鹿な!……前から気を病むに及ぶものか。ちょうど天気もよかった。彼はムードンへ出かけた。
彼は歩行の飢えを感じていた。歩いてると音楽上の収穫が増してきた。彼は音楽に満ちていて、あたかも蜂《はち》の巣のようだった。そして蜜蜂《みつばち》の金色の羽音に微笑《ほほえ》んでいた。それはたいてい、転調に富んだ音楽だった。それから、躍《おど》り立つ執拗《しつよう》な魅惑的な律動《リズム》……。室内に蟄居《ちっきょ》してしびれがきれたら、律動《リズム》を創作しにでも出かけるがいい! パリー人らのように動きのない微細な和声《ハーモニー》と混和させるには、もってこいだ!
彼は歩き疲れると、森の中に寝そべった。木々の葉は半ば枯れ落ちて、空は雁来紅《がんらいこう》の花のように青かった。クリストフはうっとりと夢想にふけった。その夢想はすぐに、十月の靄《もや》から落ちてくる柔らかい光の色に染められた。彼の血は高鳴っていた。彼は自分の思想の早波が通りすぎるのに耳傾けた。たがいに争闘してる老若の世界、また一都会の住民のように彼のうちに生きている、亡《な》き魂の断片、古《いにしえ》の客人寄食者、それらが地平線の四方から湧《わ》き上がってきた。メルキオルの墓の前で聞いたゴットフリートの古い言葉が、頭に浮かんできた。彼は、うごめいてる死人ら――見知らぬ自分の全民族――に満ちてる、生きた墳墓であった。彼はそれらの生命の群れに耳を傾け、あたかもダンテの森のように怪物に満ちたその古い森の、大オルガンの音をたてさせるのが楽しみだった。彼は今ではもうそれらの怪物を、少年時代のように恐《こわ》がりはしなかった。なぜなら、支配者が、彼の意志が、そこにあったから。彼は獣どもを咆哮《ほうこう》させるために、そして内心の動物園の豊富さをいっそうよく感ずるために、鞭《むち》を響かせて非常に喜んでいた。彼は孤独ではなかった。孤独になるの恐れはさらになかった。自分一人だけで全軍隊であり、快活健全なクラフト家の数世紀であった。敵たるパリーにたいして、一民衆にたいして、こちらも一の民衆だった。争闘は互角であった。
クリストフは、これまで住んでいた粗末な室――室代があまり高かった――を捨てて、モンルージュ町にある屋根裏の室を借りた。この室は他になんの取り柄もなかったが、ただきわめて風通しがよかった。たえず空気が流れ込んできた。ちょうど彼には、深く空気を呼吸することが必要だったのである。その窓からは、パリーの立ち並んだ煙突がずっと見渡せた。移転は手間取らなかった。荷車一つで十分だった。クリストフはみずからその荷車をひいた。道具の中で彼にとって最も貴重なのは、古いかばんとベートーヴェンの面型《マスク》とであった。この面型《マスク》は、その後世に広まった鋳物の一つだったが、彼はそれを、最も高価な美術品ででもあるかのように、ごくていねいに包み上げていた。手元から少しも離さなかった。それは彼にとって、パリーの大洋中における小島であった。また、精神上の晴雨計でもあった。彼の魂の天候を、彼のごくひそかな思想を、彼がみずから意識してる以上にはっきりと示してくれた。あるいは雲に閉ざされた空を、あるいは熱情の突風を、あるいは力強い静穏を示してくれた。
彼は食物を非常に節約しなければならなかった。日に一回、午後一時に食事をすることにした。大きな腸詰《ちょうづめ》を買って窓につるしておいた。その厚ぼったい肉片、堅い一片のパン、手製のコーヒー一杯、それだけで彼は山海の珍味とした。しかしそれを二人分も食べたかった。彼は自分の貪食《どんしょく》に腹が
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