かなり食い辛棒《しんぼう》で、なんでもないことに顔を赤らめ、あるいは幾時間も黙り込み、あるいは快活にしゃべりたて、すぐに笑ったり泣いたりし、しかも突然のすすり泣きや子どもらしい笑い方をするのだった。彼女は笑うのが好きで、つまらないことを面白がった。決して大人《おとな》ぶるところがなかった。まだ子どものままだった。ことに彼女は善良で、人に心配をかけることを苦にし、また少しでも人から小言《こごと》を言われるのを苦にした。ごく謙遜《けんそん》で、いつでも引っ込みがちで、美しいとかりっぱだとか思えるようなものは、なんでも愛したがり感嘆したがっていて、他人のうちに実際以上の美点をみて取りがちであった。
 彼女の教育はたいへん遅れていたので、人々はそれに気を配った。かくて彼女は、クリストフについてピアノの稽古《けいこ》を受けた。
 彼女は叔母《おば》の家の夜会で初めてクリストフに会った。たくさんの人が集まっていた。クリストフは聴衆に応じて機宜の処置を取ることができなかったので、長々しいアダジオを一つ演奏した。皆は欠伸《あくび》をしだした。曲は終わるかと思うとまた始まっていた。いつになったら終わるか見当がつかなかった。ストゥヴァン夫人はじりじりしていた。コレットはこのうえもなく面白がっていた。事情の滑稽《こっけい》さを残らず味わっていた。かくまでクリストフが無頓着《むとんじゃく》なのを不快に思うわけにはゆかなかった。彼が一つの力であることを彼女は感じて、かえって同情の念が起こった。しかしまた滑稽でもあった。そして彼を弁護してやることをよく差し控えた。ただ小さなグラチア一人が、涙を浮かべるほどその音楽に感動していた。彼女は客間の片隅《かたすみ》に隠れていた。しまいには、自分の感動を人に見られたくないので、またクリストフが嘲笑《ちょうしょう》されるのを見るのがつらくて、逃げ出してしまった。
 数日後に、晩食の時、ストゥヴァン夫人は彼女の前で、クリストフからピアノの稽古を受けさせることを話した。グラチアははっとして、スープ皿《ざら》の中に匙《さじ》を取り落し、自分と従姉《いとこ》とにスープをはねかけた。コレットは、行儀よく食卓につく教えをまず受けるべきだと言った。ストウヴァン夫人は、その方面のことはクリストフには頼めないと言い添えた。グラチアは、クリストフといっしょにしてしかられたのがうれしかった。
 クリストフは稽古《けいこ》を始めた。彼女はいやに堅くとりすまして、両腕が身体に糊《のり》付けになり、身動きすることもできなかった。クリストフが彼女の小さな手の上に自分の手を置き添えて、指の位置を直しそれを鍵《キー》の上に広げてやる時、彼女は気が遠くなるような心地がした。彼女は彼の前でひき損じはすまいかとびくびくしていた。しかし、病気になるほどつとめても、従姉《いとこ》にじれったがった叫び声をたてさせるほどつとめても、クリストフがそばにいる間はいつもひき損じてばかりいた。息もろくにできないし、指は木片のように堅くなったり、綿のように力なくなったりした。音符にまごついたり、アクセントを逆にしたりした。クリストフは彼女をしかり飛ばして、むっとして立ち去った。すると彼女は死にたいほどつらかった。
 彼は彼女になんらの注意をも払っていなかった。彼はただコレットにばかり心を向けていた。グラチアは従姉とクリストフとの親交をうらやんだ。しかし、それがたとい苦しいことだったとはいえ、彼女の善良な小さな心は、コレットとクリストフとのためにそれを祝していた。彼女は自分よりコレットの方がずっとすぐれてると考えていたので、コレットがすべての好意を一人で占めるのは当然だと思っていた。――彼女が従姉と対抗する自分の心を感ずるのは、従姉とクリストフといずれかを選ばなければならない時にばかりであった。彼女は小さな女らしい直覚によって、コレットの嬌態《きょうたい》とレヴィー・クールが彼女に寄せてる執拗《しつよう》な追従《ついしょう》とをクリストフが苦しんでるのを、よく見て取った。彼女は本能的にレヴィー・クールを好んでいなかったが、クリストフが彼をきらってると知るや否や、同じく彼をきらった。コレットがどうして彼をクリストフの競争者にさして喜んでるかを、彼女は理解できなかった。彼女はひそかにコレットをきびしく批判し始めた。そしてコレットの小さな虚偽を多少発見して、にわかに態度を変えた。コレットはそれに気づいた。しかし原因は察することができなかった。彼女はそれを小娘の移り気のせいだとしたかった。しかしただ確実なことは、自分がグラチアにたいして権力を失ったということだった。つまらない一事がそれを証明した。ある夕方、二人で庭を散歩していると、ちょっと村雨が降りだしたので、コレットは追従《ついしょう》的な愛情を示して、グラチアを自分のマントの中に入れてやろうとした。数週間前だったら、なつかしい従姉《いとこ》の胸に寄りすがるのは、グラチアにとってえも言えぬうれしさであるはずだったが、その時グラチアは、冷やかに遠のいた。それからまた、グラチアがひいてる楽曲を面白くないものだと思う由を、コレットが言ってきかしても、グラチアはやはりそれをひきつづけて、それを好んでいた。
 彼女はもはや、クリストフにしか注意を向けてはいなかった。彼女は愛情から来る洞察力《どうさつりょく》をもっていて、彼が苦しんでる事柄を推測していた。そしてそれを不安な子どもらしい注意のためにたいへん誇張していた。クリストフがコレットにたいして気むずかしい友情をしかもっていない時にでも、クリストフは恋してるのだと彼女は信じた。彼は不幸であると彼女は考えた。そして彼女は彼のために不幸であった。この憐《あわ》れな少女は、その心尽くしの報いをほとんど受けなかった。コレットがクリストフを腹だたせると、彼女はその償いをしなければならなかった。彼は不機嫌《ふきげん》になって、演奏の誤りを短気に指摘しながら、小さな弟子《でし》に向かって意趣晴らしをするのであった。ある朝、コレットは彼をいつもよりひどく怒《おこ》らせた。すると彼はいかにも乱暴な様子でピアノについたので、グラチアはそのわずかな技倆《ぎりょう》をも失ってしまった。彼女はひき渋った。彼はその音符の間違いを怒って責めたてた。すると彼女はすっかりまごついた。彼は腹をたて、彼女の手を揺ぶり、こんなではいつまでたっても正しくひけはしないと叫び、料理か裁縫か勝手なものをやるのはいいが、しかしもう断じて音楽をやらないがいいと叫んだ。間違った音符を聞かして人を苦しめるには及ばない。そう言って彼は、稽古《けいこ》の中途で放り出して帰っていった。憐《あわ》れなグラチアは涙の限り泣いた。それは、右のような屈辱的な言葉にたいする悲しさからというよりも、いくら望んでもクリストフを喜ばせることができない悲しさからであり、自分の愚かさによって愛する人の苦しみをさらに増させる悲しさからであった。
 クリストフがストゥヴァン家へ来るのをやめた時、彼女はさらにひどく悩んだ。故郷へ帰ってしまいたかった。この少女は、夢想においてまで健全であって、田園的な清朗な素質を失わないでいたので、神経衰弱のいらいらしたパリー婦人の間に交ってこの都会に住んでると、妙に居心地が悪かった。あえて口には出さなかったが、周囲の人々をかなり正確に判断してしまった。しかし彼女はその父と同様に、温良さや謙譲さや自信の不足などによって、臆病《おくびょう》で気が弱かった。主権的な叔母《おば》と圧制を事とする従姉《いとこ》とから、支配されるままになっていた。年老いた父へやさしい長い手紙を几帳面《きちょうめん》に書き送ってはいたが、あえてこうは書き得なかった。
「どうぞ私を連れ帰ってくださいませ!」
 そして老いた父も、連れ帰ることを望んではいたがあえてなし得なかった。なぜなら、ストゥヴァン夫人は彼のおずおずした申し出にたいして、グラチアは当地にいてたいへんいいとか、彼といっしょにいない方がはるかにいいとか、彼女の教育のためにまだ滞在していなければいけないなどと、すでに答え返してしまっていたから。
 しかし、この南国の小さな魂には流離があまりに悲しくなり、光の方へ飛び帰らざるを得ない時が、ついに到来した。――それはクリストフの音楽会後であった。彼女はそこへストゥヴァン家の人たちとともに行っていた。そして、芸術家を侮辱して面白がってる群衆の嫌悪《けんお》すべき光景を見ることは、彼女にとっては非常に切ないことであった。……芸術家、それはグラチアの眼には、芸術それ自身の面影たる人であり、人生におけるすべて崇高なるものを具現してる人であった。彼女は泣き出したくなり、逃げ出したくなった。それでもぜひなく、喧騒《けんそう》や口笛や非難の声を終わりまで聞かされ、また叔母《おば》の家に帰ると、種々の悪口を聞かされ、リュシアン・レヴィー・クールと憐《あわ》れみの言葉をかわしてるコレットの、はれやかな笑い声を聞かされた。自分の室の中に、寝床の中に、彼女は逃げ込んで、一夜のなかばすすり泣いた。彼女は心でクリストフに話しかけ、彼を慰め、自分の命をも彼にささげたがり、彼を幸福ならしむるようなことが何もできないのを悲嘆した。それ以来彼女はパリーにとどまってることができなくなった。彼女は連れ帰ってくれるようにと父へ懇願した。彼女は書いた。
「私はもうここで暮らすことはできません、もうできませんわ。このうえ長く放っておかれると、私はきっと死んでしまいます。」
 彼女の父はすぐにやって来た。そして、恐ろしい叔母に対抗することは彼ら二人にとっていかにも困難なことではあったが、絶望的な意志の努力でやってのけた。
 グラチアはひっそりとした広い庭の中にもどってきた。親しい自然と愛する人々とをふたたび見出して喜んだ。彼女の痛める心は晴れていったが、太陽の光に少しずつ消えてゆく霧の帷《とばり》のような北方の憂鬱《ゆううつ》を多少、その心の中に彼女は持ち帰って、なおしばらくは保っていた。彼女は時おり、不幸なクリストフのことを考えた。芝生《しばふ》の上に寝ころんで、耳|馴《な》れた蛙《かえる》や蝉《せみ》の声を聞きながら、あるいはピアノの前にすわって、昔よりはしばしばそれと心で話をしながら、彼女はみずから選んだ友のことを夢想した。幾時間も彼と声低く語り合った。いつかは彼が扉《とびら》を開いてはいってくることも、あり得べからざることだとは思えなかった。彼女は彼に手紙を書いた。そして長く躊躇《ちゅうちょ》したあとで、無名にしてその手紙を贈った。ある朝ひそかに、広い耕作地の彼方《かなた》三キロも隔たった村の郵便箱に、胸をとどろかせながらそれを投じに行った。――親切なやさしい手紙であって、彼は孤独ではないこと、落胆してはいけないこと、彼のことを考えてる人がいること、彼を愛してる人がいること、彼のために神に祈ってる人がいること、などが告げてあった。――しかも憐《あわ》れな手紙、愚かにも途中に迷ってしまって、彼の手には届かなかった。
 それからは、単調な清朗な日々が、この遠い女友だちの生活のうちに開けていった。そして、イタリーの平和が、平穏と落ち着いた幸福と無言の観照との精神が、その清いひそやかな心の中に返ってきた。その底にはなお、小揺《こゆる》ぎもない小さな炎のように、クリストフの思い出が燃えつづけていた。

 しかしクリストフは、遠くから自分を見守《みまも》っていてくれて、将来自分の生活中に大なる場所を占むることとなる、この純朴《じゅんぼく》な愛情の存在を知らなかった。また彼は、自分が侮辱されたあの音楽会に、将来友たるべき一人の男が、手を取り合いながら相並んで進むべき親しい道づれが、出席していたことを知らなかった。
 彼は孤独だった。孤独であるとみずから思っていた。それでも彼は少しも失望しなかった。先ごろドイツで苦しんだあの苦々《にがにが》しい悲しみを、彼はもう感じなくなっていた。彼はいっそう強くなりい
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