、先刻から大喜びをしてその光景を見ていたシルヴァン・コーンが、彼の腕をとらえ、いっしょに劇場の階段を降りてゆく時に、笑いながら言った。
「だが君は、あの女が彼の情婦だということを知らないのか。」
クリストフはそれで事情がわかった。してみると、作品が上場されたのは、彼女のためにであって、彼のためにではなかったのだ。ルーサンの意気込み、その出費、取り巻き連中の熱心、などの理由が彼にわかった。彼はシルヴァン・コーンの言葉に耳を傾けて、サント・イグレーヌに関する話を聞いた。彼女は演芸館の歌手であって、通俗な小芝居に出て成功した後、そういう連中の多くの例に漏れず、もっと自分の才能にふさわしい舞台で歌いたいという野心を起こした。そしてルーサンを頼りとして、オペラ座かオペラ・コミック座かへはいりたがっていた。もとよりそれを望んでいたルーサンは、ダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]上演の機会をとらえて、ほとんどなんらの劇的所作をも要求せず、しかも形体の優美さを十分に発揮させてくれる役を、その新進女優にやらして、彼女の抒情《じょじょう》的天分を、パリーの公衆に安全に見せてやるつもりだった。
クリストフはその話を終わりまで傾聴した。それから、シルヴァン・コーンの腕を離して笑い出した。彼は長い間笑った。笑い絶えてから言った。
「僕は君らがきらいだ。フランス人は皆きらいなんだ。君らにとっては、芸術はなんでもないんだろう。いつでも婦人ばかりが問題だ。一人の舞妓《まいこ》のために、一人の歌妓《かぎ》のために、某氏の情婦のために、あるいは某夫人の贔屓《ひいき》の女のために、歌劇《オペラ》を上演するのだ。君らは淫猥《いんわい》なことをしか頭においていないんだ。だが僕はそのために君らを憎みはしない。君らはそういう人間だ。よかったらそのままでいるがいい。そして泥水《どろみず》の中に餌《えさ》を捜し回りたまえ。しかし僕は別れよう。僕たちはいっしょに暮らせるようにはできていないんだ。さようなら。」
彼はコーンと別れた。そして家に帰ると、作品を撤回する由をルーサンへ書き贈った。もちろん撤回の理由も隠さなかった。
それが、ルーサンおよびその一派との絶縁だった。その結果はただちに現われてきた。諸新聞は上演計画についてある風説を流布《るふ》していたし、作曲家と実演者との葛藤《かっとう》の話は噂《うわさ》の種とならざるを得なかった。ある音楽会の司会者は好奇心を起こして、日曜日の昼興行《マチネー》にその作を採用した。その幸運もクリストフにとっては一つの災難であった。作品は演奏された――そして失敗した。女歌手の味方は皆、無礼な音楽家を懲らしめてやろうと牒《しめ》し合わせていた。残余の聴衆は交響詩に退屈しきって、玄人《くろうと》筋の決議に雷同した。そのうえ運の悪いことには、クリストフは自分の技能を見せるため、ピアノと管弦楽とのための幻想曲《ファンタジヤ》を一つ、その音楽会で聞かせることを不用意にも承諾した。聴衆の不穏な気分は演奏者らをいたわりたい心から、ダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]実演の間はある程度まで押えられていたが、作者自身と面を合わせる段になると――その演奏もまた大して正確ではなかったが――自由に発露された。クリストフは聴衆席の喧騒《けんそう》に気を腐らし、楽曲の途中で突然中止した。そして、にわかに静まり返った聴衆を不快な様子でながめながら、マルブルーの出征[#「マルブルーの出征」に傍点]をひいた――そして傲然《ごうぜん》と言った。
「諸君にはこれが適当です!」
そこで彼は立ち上がって出て行った。
大した騒ぎだった。人々は彼が聴衆を侮辱したと叫び、客席に来て謝罪すべきだと叫んだ。諸新聞は翌日、パリーのよき趣味によって罰せられた野卑なドイツ人を、いっしょになって筆誅《ひっちゅう》した。
その次には、ふたたびひっそりと静まり返ってしまった。クリストフはまたもや、敵意を含んだ他国の大都市の中で孤立した。今までになくひどい孤立だった。しかし彼はもはや気にしなかった。これが自分の運命である、生涯《しょうがい》このとおりだろう、と彼は信じ始めていた。
彼は知らなかった、偉大な魂は決して孤独でないことを、時の運によって友をもたないことがあるとしても、ついにはいつも友を作り出すものであることを、それは自分のうちに満ちてる愛を周囲に放射することを、また、自分は永久に孤立だと信じてる現在においても、彼は世の最も幸福な人々よりさらに多くの愛を他から受けていたことを。
ストゥヴァン家には十三、四歳の少女がいて、クリストフはこれにも、コレットと同時に稽古《けいこ》を授けていた。彼女はコレットの従妹《いとこ》で、グラチア・ブオンテンピという名前だった。金色の顔色をした少女で、頬骨《ほおぼね》の肉が軽く薔薇《ばら》色を帯び、頬がふっくらとして、田舎《いなか》娘のような健康をもち、やや反《そ》り返った小さな鼻、いつも半ば開いてる切れのいい大きな口、まっ白な円い頤《あご》、やさしく微笑《ほほえ》んでる静安な眼、長い細やかな房々《ふさふさ》した髪に縁取られてる円《まる》い額《ひたい》、そしてその髪は、縮れもせずにただ軽いゆるやかな波動をなして、顔にたれていた。静かな美しい眼つきをした、顔の大きな、アンドレア・デル・サルトの幼い聖母に似ていた。
彼女はイタリーの者だった。両親はほとんど一年じゅう北部イタリーの田舎《いなか》の、大きな所有地に住んでいた。野原や牧場や小さな運河などがあった。屋上の平屋根からは、金色の葡萄《ぶどう》畑の波が足下に見おろせた。黒いとがった糸杉《いとすぎ》の姿がところどころにそびえていた。その向こうには畑がうちつづいていた。閑寂だった。地を耘《うな》ってる牛の鳴声や、犁《すき》を取ってる百姓の甲《かん》高い声が聞こえていた。
「シッ!……ダア、ダア、ダアー!……」
蝉《せみ》が木の間で鳴いていた。蛙《かえる》が水のほとりに鳴いていた。そして夜には、銀の波をなした月光の下に、無限の静寂があった。遠くで、柴《しば》小屋の中にうとうとしてる収穫の番人らが、眼覚《めざ》めてることを盗人に知らせんがため、時々小銃を打っていた。半ば眠りながら聞く人々にとっては、その音も、夜の時間を遠くで刻んでる、平和な時計の音と異ならなかった。そして静寂はまた、襞《ひだ》の広い柔らかなマントのように、人の魂を包んでいった。
小さなグラチアの周囲では、人生が眠ってるかのようだった。人々はあまり彼女に干渉しなかった。彼女は美しい静穏のうちに浸って、静かに生長していった。いらだちも気忙《きぜわ》しさもなかった。彼女は怠惰で、ぶらついたり寝坊したりするのが好きだった。幾時間も庭の中に寝そべっていた。夏の小川の上の蝿《はえ》のように、静寂の上に漂っていた。そして時とすると、理由もなく突然走り出すことがあった。頭と上半身とを軽く右に傾けながら、しなやかに暢々《のびのび》として、小さな動物のように駆けた。飛びはねる面白さのために石ころの間を登ったり滑《すべ》ったりする、まったくの子|山羊《やぎ》であった。また彼女は、犬や蛙や草や木や、家畜場の百姓や動物などを相手に、話をした。周囲の小さな生物が非常に好きだった。大きなものも好きだった。しかし大きなものにたいしては、さほど夢中にはならなかった。彼女はごくまれにしか客に接しなかった。この土地は町から遠くて、かけ離れていた。日焼けのした顔に眼を輝かし、頭をもたげ胸をつき出して、ゆったりした歩き方をする、真面目《まじめ》くさった百姓や田舎《いなか》娘が、埃《ほこり》の多い街道の上を、引きずり加減の足取りで、ごくまれに通っていった。グラチアはただ一人で、ひっそりした庭の中で幾日も過ごした。だれにも会わなかった。決して退屈もしなかった。何にも恐《こわ》くはなかった。
ある時一人の浮浪人が、人のいない農場へ鶏を盗みにはいった。すると、小声で歌いながら草の上に寝そべって、長いパンをかじってる少女に出っくわして、びっくりして立ち止まった。彼女は平気で男をながめて、なんの用かと尋ねた。男は言った。
「何かもらいに来たのだ。くれなけりゃひどいことをするぞ。」
彼女は自分のパンを差し出した。そして微笑を浮かべた眼で言った。
「ひどいことをするものではありませんよ。」
すると男は立ち去っていった。
彼女の母は死んだ。父はいたってやさしく、気が弱かった。彼はりっぱな血統の老イタリー人で、強健で快活で愛想がよかったが、しかし多少子どもらしいところがあって、娘の教育を指導することがとうていできなかった。その老ブオンテンピの妹に当たるストゥヴァン夫人は、葬式のためにやって来て、娘の一人ぽっちな境遇にびっくりし、喪の悲しみを晴らしてやるために、彼女をしばらくパリーへ連れて行こうとした。グラチアは泣いた。年とった父も泣いた。しかしストゥヴァン夫人が一度思い定めた以上は、もうあきらめるよりほかに仕方がなかった。彼女に逆らうことはとうていできなかった。彼女は一家じゅうでのしっかり者だった。パリーの家においてさえ、すべてを支配していた、夫をも娘をも、また情人らをも――というのは、彼女は義務と快楽とを同時にやってのけていた。実際的でしかも熱情的だった――そのうえ、きわめて社交的で活動的だった。
パリーに連れて来られると、もの静かなグラチアは、美しい従姉《いとこ》のコレットが大好きになった。コレットは彼女を面白がった。人々はこのやさしい小さな芽生《めば》えを、社交|裡《り》に引き入れたり芝居に連れていったりした。彼女はもう子どもではないのに、皆から子どもとして取り扱われ、自分でもやはり子どものように思っていた。心の中の感情を押し隠していたし、その感情を恐がっていた。それはある物もしくはある人にたいする愛情の跳躍だった。彼女はひそかにコレットを慕っていた。コレットのリボンを盗みハンケチを盗んだ。その面前で一言も口がきけないこともしばしばだった。コレットを待っていたり、これからコレットに会えるのだとわかっていたりする時には、待ち遠しさとうれしさとで震えていた。芝居で、胸を露《あら》わにした美しい従姉《いとこ》が、同じ桟敷《さじき》の中にはいって来て、衆目をひくのを見る時には、彼女は愛情のあふれたやさしいつつましい微笑《ほほえ》みを浮かべた。そしてコレットから言葉をかけられると、気がぼーっとなった。白い長衣をまとい、ふうわりと解いた美しい黒髪を褐色《かっしょく》の肩にたらし、長い手袋の先を口にかみ、手もちぶさたのあまりにはその切れ目へ指先をつっ込みながら、芝居の間じゅうたえず彼女は、コレットの方へふり向いては、親しい眼つきを求めたり、自分が感じてる楽しみを分かとうとしたり、または褐色《かっしょく》の澄んだ眼で言いたがった。
「私あなたを愛しててよ。」
パリー近郊の森の中を散歩する時には、彼女はコレットの影の中を歩み、その足もとにすわり、その前へ駆け出し、邪魔になるような枝を折り取り、泥濘《ぬかるみ》の中に石を置いたりした。ある夕方庭の中で、コレットは寒けを覚えて、彼女にその肩掛をかしてくれと頼むと、彼女は、自分の愛してる人が自分の物を少し身につけてくれ、次にその身体の香《かお》りがこもったままを返してもらえるといううれしさのあまり、思わず喜びの声をたてた――(あとでそれを恥ずかしく思いはしたが)。
彼女に楽しい胸騒ぎを起こさせるものとしては、なおその他に、ひそかに読んでる詩集――(彼女はまだ子どもの書物だけしか許されていなかったので)――のあるページがあった。それからさらに、ある種の音楽があった。皆からは音楽がわかるものかと言われていたし、自分でも何にもわからないと思い込んでいたが、しかしそれでも、感動のあまり顔色を変え汗ばんでいた。そういう時彼女のうちに何が起こってるかは、だれも知らなかった。
その他の点においては、彼女はいつもおとなしい小娘で、うっかりしていて、怠惰で、
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